<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>chippi&amp;tetu</title><link href="https://tetu.amebaownd.com"></link><subtitle>いつしかの&#xA;「チッピー」と「徹太郎」</subtitle><id>https://tetu.amebaownd.com</id><author><name>tetu</name></author><updated>2018-09-05T08:45:00+00:00</updated><entry><title><![CDATA[「曾皙」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5557094/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5557094</id><summary><![CDATA[  ””儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「私カニ自ラ楽シムニ有ル」所以のものではない。 ・・・孔子は、道を行うのに失敗した人である。晩年、その不可なるを知り、六経を修めて、これを後世に伝えんとした人である。・・・晩年不遇の孔子と弟子たちとの会話である。もし、世間に認められるようになったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人、曾皙だけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこう対えた、 「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、沂（魯の首都の郊外にある川の名）ニ浴シ、舞雩ニ風シ（雨乞の祭りの舞をまう土壇で涼風を楽しむ）、詠ジテ帰ラン」。 孔子、これを聞き、 「喟然トシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点（曾皙）ニ与セン」、そういう話である。 ””（「本居宣長（上）」小林秀雄著　　新潮社　SHINCHO ONLINE BOOK ）    孔子は、「仁、義、礼、智、信」五徳の儒教によって「天下を治め民を安んずる道」を行うことに失敗した。 孔子は、儒教という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、儚く破れて天を仰いだ。 不遇の身となった孔子は、なお儒教による政治の希望を語る弟子達にかける言葉が見あたらず、「沂浴詠帰」、ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ、と答えた「曾皙」の思想に、嘆息しながらも賛同した。     近代は、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を行うとするものである。 近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画した。 理性は、「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」として人の心の世界に確かにあるものと、この世に広く認識流布されているものであり、それ自体が共同幻想である。人の心の世界に理性があると認識するのがその理性であるのであれば、畢竟、理性もまた信仰であり、その信仰の流布は共同幻想である。  共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される心の世界である。そして、それはそうであることによって、この世のどこにでもまたさまざまに作り出され、また広く流布されうるものであり、またそれぞれが相対のものとして乱立するものである。その客観と抽象の上位階層として国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想、 民族幻想などが立ち上がり、その下位階層にはそれぞれの共同体固有の国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想などが入れ子となったり絡み合いながらもなおそれぞれが相対として乱立する。  政治に参画した近代の理性は、その理性によってこれらの入れ子となったり絡み合いながら乱立する相対の共同幻想を整理統御して「天下を治め民を安んずる」べき責めをみずからに任じたものである。 しかしながら、理性によって乱立する共同幻想をいかに整理統御してもなおそれぞれの共同幻想の相対とその相克という罠から抜け出ることはできないし、その理性もまた信仰であり、それもまた相対の共同幻想であるという無限の循環の罠から抜け出すことはできない。   個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界である。 対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される同じ心の世界である。 共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される同じ心の世界である。 その自己幻想、対幻想、共同幻想は、人の一つの心の世界に同時にしかしその観念としての位相を異にしながら、またそれぞれがそれぞれの影響を常に受けながら住まい分けしているものである。人は、その一つの心の世界でありながら、その観念の位相の異なりと住まい分けによって、自己幻想、対幻想、共同幻想を同時に意識に昇らせることはできないし、それらを同時に表現することもできない。 また自己幻想、対幻想、共同幻想は、その観念の位相の異なりによって、それぞれが共立し順立をすることもあれば互いに並び立たず逆立することもあるものである。 自己幻想、対幻想、共同幻想が人の一つの心の世界でそれぞれ並び立たず逆立することになれば、人はその心の平穏を保つことができない。 人の心の世界のなかの自己幻想、対幻想、共同幻想は観念としての優先も優劣もないから、その相対の相克は果てしなく人の心の平穏を乱すものである。 この心の平穏の乱れによって、人は「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがった判断したり行動する」ことができなくなる。このとき、人の理性は揺るぎ、また人は理性を失う。そしてまたこのとき人の理性への信仰は揺るぎ、人はその信仰を失う。  それでもなお、神、自然を疎外しその支配から逃れて、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を選択した近代はその任を果たすべき宿命にあり、もはや神、自然の摂理にその運命を委ねることはできない。 しかしながら、近代がその責任を果たしうる道はほぼなくなりつつあり、近代はそれを明らかに悟りつつある。 近代は、武力戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。近代は、経済戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。武力戦争も経済戦争も人の理性によって巧妙怜悧にまた冷酷無比にしかけられたものである。 近代は、人の理性の限界を悟りつつある。 近代は、そのみずからが信仰であり無限の循環の罠である人の理性を、絶対として「感情や欲求に流されることなく」、絶対として「道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」とする「純粋理性」に創り替えて、その「純粋理性」によって「天下を治め民を安んずる道」を行うべく企てている。しかし、その「純粋理性」もまた人の理性によって創り替えられるものであれば、それはやはり無限の循環の罠に囚われた観念であり、この世に夢遊して漂うだけの幻覚である。     近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、もうその責を果たすことはできない。 その不遇の近代で、なお頑なに理性による政治の希望を語ることは、その理性による人への無理解であり、その無理解の理性による人への冒涜である。   「沂浴詠帰」  ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-09-05T08:45:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:33:40+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「ジャズ⑤」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5557083/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5557083</id><summary><![CDATA[   このごろは酔いがまわるとストンと寝落ちする。いい気分で飲み始めるとなお早い。  さきほどから、いい気分で飲み始めている、それにもうベッドに潜り込んでいる、 なのに、きょうはなかなかそういかない。   また、さっきのアレか。  「半音はずし」は　 ”Flung  out  of  space”   ってことで、とりあえず気持ちよく落ち着いた。  でも　”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ” ってやつが残ってた。 こいつは、やっぱり、わかるようでわからない。  ひょっとしてこれも　”Flung  out  of  space”  か？ぽんと空から放り投げられた謎かけ、ってやつか？   いや、もうヘタに考えるのはやめにしている、考えるなんてことはムダだ、考えるといずれドツボにはまる、もう、しこたま考えてしこたまバカをみた。  だからジャズをはじめたんだ、だからジャズを生業にしているんだ。   考えるんじゃなくて、ただ感じればいい、これまでそうしてきた、ものごとは、ただただ感じればいい、感じとればいい。   あの「半音はずし」は、　”Flung  out  of  space” だ、って感じられたんだ。 ”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ”ってやつも、そのはずだ、そのままを、ただすなおに感じてみればいい。  そう思って、じっと眼をつぶった、  考えない、心の動きを鎮めて、ただ感じるんだ　・・・・・・      夜がすっかり更けて布団にすっぽりと潜り込む、耳元にはちゃんと小さなラジオを引き寄せている、 聴こえてきた、はるか遠いところから、 ゆったり、のんびりしたハーモニカが、調子ずらしのおどけたリズムで、こっちに呼びかけるように、 追って、 　　"  Love Love me do　　　You know  I love you　　　　・・・なんて、呆気も素っ気もない詞で、ゆったり、のんびりした、調子ずらしのおどけたリズムに乗せて、こっちに歌い掛けてくるように、   聴こえてきたのは、気分だった。それは、こっちとおなじ気分だった。 感じていたのは、気分だった。それは、こっちとおなじ気分だった。  あとで知った。 遠くリヴァプールの「Cavern」でやってたあの４人だった。   あの４人のあのときの気分だった。  その気分に、こっちのおなじ気分がトントンと応えてジンジンと響いた、 って、たしかにあのとき感じた。   ものごとは感じればいい、感じれば、伝わる。感じれば、気分も伝わる。気分が伝われば、つながる。 そう、それでオーケーだ。   おう、ちゃんとハマった。  ”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ” こいつにちゃんとハマった　・・・・・・      ってところで、ふいと目が覚めた。  こうなると夜はけっこう長い。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-08-29T08:45:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:30:02+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p> </p><p> </p><p> </p><p>このごろは酔いがまわるとストンと寝落ちする。</p><p><br></p><p>いい気分で飲み始めるとなお早い。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>さきほどから、いい気分で飲み始めている、</p><p>それにもうベッドに潜り込んでいる、</p><p> </p><p><br></p><p>なのに、きょうはなかなかそういかない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>また、さっきのアレか。</p><p> </p><p> </p><p>「半音はずし」は　 ”Flung  out  of  space”   ってことで、とりあえず気持ちよく落ち着いた。</p><p> </p><p> </p><p>でも　”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ” ってやつが残ってた。</p><p> </p><p><br></p><p>こいつは、やっぱり、わかるようでわからない。</p><p> </p><p> </p><p>ひょっとしてこれも　”Flung  out  of  space”  か？</p><p>ぽんと空から放り投げられた謎かけ、ってやつか？</p><p> </p><p> </p><p> </p><p>いや、もうヘタに考えるのはやめにしている、</p><p><br></p><p>考えるなんてことはムダだ、</p><p>考えるといずれドツボにはまる、</p><p>もう、しこたま考えてしこたまバカをみた。</p><p> </p><p> </p><p>だからジャズをはじめたんだ、</p><p>だからジャズを生業にしているんだ。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>考えるんじゃなくて、ただ感じればいい、</p><p>これまでそうしてきた、</p><p>ものごとは、ただただ感じればいい、感じとればいい。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>あの「半音はずし」は、　”Flung  out  of  space” だ、って感じられたんだ。</p><p> </p><p>”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ”ってやつも、そのはずだ、</p><p><br></p><p>そのままを、ただすなおに感じてみればいい。</p><p> </p><p> そう思って、じっと眼をつぶった、</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>考えない、</p><p>心の動きを鎮めて、</p><p>ただ感じるんだ　・・・・・・</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>夜がすっかり更けて布団にすっぽりと潜り込む、</p><p>耳元にはちゃんと小さなラジオを引き寄せている、</p><p> </p><p><br></p><p>聴こえてきた、</p><p>はるか遠いところから、</p><p> </p><p>ゆったり、のんびりしたハーモニカが、</p><p>調子ずらしのおどけたリズムで、</p><p>こっちに呼びかけるように、</p><p> </p><p><br></p><p>追って、</p><p> </p><p>　　"  Love Love me do</p><p>　　　You know  I love you</p><p>　　　　・・・</p><p>なんて、呆気も素っ気もない詞で、</p><p>ゆったり、のんびりした、調子ずらしのおどけたリズムに乗せて、</p><p>こっちに歌い掛けてくるように、</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>聴こえてきたのは、気分だった。</p><p>それは、こっちとおなじ気分だった。</p><p> </p><p>感じていたのは、気分だった。</p><p>それは、こっちとおなじ気分だった。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>あとで知った。</p><p><br></p><p> 遠くリヴァプールの「Cavern」でやってたあの４人だった。</p><p><br></p><p> </p><p>  </p><p>あの４人のあのときの気分だった。 </p><p> </p><p>その気分に、こっちのおなじ気分がトントンと応えてジンジンと響いた、</p><p> </p><p>って、たしかにあのとき感じた。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>ものごとは感じればいい、</p><p>感じれば、伝わる。</p><p>感じれば、気分も伝わる。</p><p>気分が伝われば、つながる。</p><p> </p><p><br></p><p>そう、それでオーケーだ。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>おう、ちゃんとハマった。</p><p> </p><p> </p><p>”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ”</p><p> </p><p>こいつにちゃんとハマった　・・・・・・</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>ってところで、ふいと目が覚めた。</p><p> </p><p><p> </p><p></p></p><p><br></p><p>こうなると夜はけっこう長い。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「相対」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5557055/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5557055</id><summary><![CDATA[   先の大戦が終わって７０年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。   人は、それぞれ自己の個人幻想を紡ぎ出す。近代の個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その人だけの「絶対」のものである。 人は、二人の間で対幻想を紡ぎ出す。近代の対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その二人それぞれにだけの「絶対」のものである。 対幻想は、二人の間にのみ産み出される。人は、二人以上を相手として、同時に、そのさまざまな感覚と感情を取り交わすことができない。人は、三人以上の間で、「絶対」の心の世界を産み出すことができない。 人は、三人以上になると、個人幻想・対幻想が「相対」にさらされ、その「絶対」は揺さぶられる。  人は、三人以上の共同体においてさまざまな共同幻想に遭遇する。近代の共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって作り出される心の世界である。そして、それはそうであることによって、この世にひろく流布されうるものである。また、それがそうであることによって、人は、そのさまざまな感覚と感情や具体的な特質が捨象された、客観と抽象に装われた名辞あるいは数として扱われるものである。そしてまた、その客観や抽象に装われた言葉や文字は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象したものであるから、それらによって作り出される共同幻想は空疎の観念そのものである。よって、近代の共同幻想は、この世のどこにでもまたさまざまに作り出されるものであり、それらはまぎれもない「相対」のものとして、この世に乱立するものである。    共同幻想が人の心身に対して観念あるいは実体として侵入してきたとき、人はそれを心の世界で受け入れることができるか、受け入れるとして心のどこにどのように受け入れるのか迫られる。 その侵入してくる共同幻想がどの共同体をどのように支配しているものか、それは人の「絶対」の個人幻想や対幻想と共立するものか、それらは互いに侵害しあうものか、影響しあうものか、それらの判断をさまざまに迫られる。   「絶対」である神、自然が主宰する共同幻想では、人の個人幻想・対幻想は「相対」となりうるから、この相克は構造的には起こらない。 近代は、「人間中心主義」を標榜して、「絶対」である神、自然を強く疎外した。近代は、「人間中心主義」により、人の個人幻想・対幻想を「絶対」のものと措定して、その共同幻想を「相対」のものとして作り出した。 近代は、人の「絶対」の個人幻想・対幻想と共同幻想との、それに加えて「相対」である共同幻想それぞれの、果てしのない「相克」の世界である。  近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、さまざまなところでさまざまな戦を仕掛けてきているが、その「相対」は揺るがない。近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、他の「共同幻想」を打倒するため、その人の心身を攻撃、殲滅する戦を仕掛けてきているが、なおそのみずからの「相対」をさらしたままである。　  近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、先の大戦を仕掛けて、無数の人々の心身を攻撃、殲滅したが、そこで生き延びた「共同幻想」もなんらの「絶対」を得ることはなく、その「相対」の姿をいまもさらしたままである。  先の大戦が終わってから、近代は、さらなる精密無比の機器や技術を開発して、人の心身を細部にわたって分析調査し、その結果にしたがって人をさまざまな機関に組み込み管理し、また人の生殖と死までをも数値化し統計を図り、人のその心身すべてを即物の経済プロセスのなかに完全に嵌め込むことによって、その人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、また「共同幻想」の揺らぎをとどめて、それを「絶対」のものとすべく懸命に急いできたが、なお果たせない。 その一方で、近代はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出して、人の個人幻想や対幻想を消滅させ、また共同幻想を「絶対」のものとする手筈を整えつつある。AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の個人幻想・対幻想の心の世界はない。AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の共同幻想を植え付けることができる。 しかし、近代が、AI人工知能と万能細胞による永遠の生命体を創出すれば、それは近代そのものの終焉であり、人の歴史の終焉となる。 近代は、近代がなお生き延びるためには、近代みずからによって、人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、「絶対」の共同幻想を作り出さなければならない宿命にある。   先の大戦が終わって７０年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-08-22T08:50:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:26:30+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p> </p><p> </p><p> </p><p>先の大戦が終わって７０年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。 </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>人は、それぞれ自己の個人幻想を紡ぎ出す。</p><p><br></p><p>近代の個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その人だけの「絶対」のものである。</p><p> </p><p><br></p><p>人は、二人の間で対幻想を紡ぎ出す。</p><p>近代の対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その二人それぞれにだけの「絶対」のものである。</p><p> </p><p>対幻想は、二人の間にのみ産み出される。</p><p><br></p><p>人は、二人以上を相手として、同時に、そのさまざまな感覚と感情を取り交わすことができない。</p><p>人は、三人以上の間で、「絶対」の心の世界を産み出すことができない。</p><p> </p><p>人は、三人以上になると、個人幻想・対幻想が「相対」にさらされ、その「絶対」は揺さぶられる。</p><p> </p><p> </p><p>人は、三人以上の共同体においてさまざまな共同幻想に遭遇する。</p><p><br></p><p>近代の共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって作り出される心の世界である。</p><p>そして、それはそうであることによって、この世にひろく流布されうるものである。</p><p>また、それがそうであることによって、人は、そのさまざまな感覚と感情や具体的な特質が捨象された、客観と抽象に装われた名辞あるいは数として扱われるものである。</p><p>そしてまた、その客観や抽象に装われた言葉や文字は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象したものであるから、それらによって作り出される共同幻想は空疎の観念そのものである。</p><p><br></p><p>よって、近代の共同幻想は、この世のどこにでもまたさまざまに作り出されるものであり、それらはまぎれもない「相対」のものとして、この世に乱立するものである。</p><p> </p><p>  </p><p> </p><p><br></p><p>共同幻想が人の心身に対して観念あるいは実体として侵入してきたとき、人はそれを心の世界で受け入れることができるか、受け入れるとして心のどこにどのように受け入れるのか迫られる。</p><p> </p><p>その侵入してくる共同幻想がどの共同体をどのように支配しているものか、それは人の「絶対」の個人幻想や対幻想と共立するものか、それらは互いに侵害しあうものか、影響しあうものか、それらの判断をさまざまに迫られる。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 「絶対」である神、自然が主宰する共同幻想では、人の個人幻想・対幻想は「相対」となりうるから、この相克は構造的には起こらない。</p><p> </p><p><br></p><p>近代は、「人間中心主義」を標榜して、「絶対」である神、自然を強く疎外した。</p><p>近代は、「人間中心主義」により、人の個人幻想・対幻想を「絶対」のものと措定して、その共同幻想を「相対」のものとして作り出した。</p><p> </p><p>近代は、人の「絶対」の個人幻想・対幻想と共同幻想との、それに加えて「相対」である共同幻想それぞれの、果てしのない「相克」の世界である。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、さまざまなところでさまざまな戦を仕掛けてきているが、その「相対」は揺るがない。</p><p>近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、他の「共同幻想」を打倒するため、その人の心身を攻撃、殲滅する戦を仕掛けてきているが、なおそのみずからの「相対」をさらしたままである。　</p><p> </p><p> 近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、先の大戦を仕掛けて、無数の人々の心身を攻撃、殲滅したが、そこで生き延びた「共同幻想」もなんらの「絶対」を得ることはなく、その「相対」の姿をいまもさらしたままである。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>先の大戦が終わってから、近代は、さらなる精密無比の機器や技術を開発して、人の心身を細部にわたって分析調査し、その結果にしたがって人をさまざまな機関に組み込み管理し、また人の生殖と死までをも数値化し統計を図り、人のその心身すべてを即物の経済プロセスのなかに完全に嵌め込むことによって、その人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、また「共同幻想」の揺らぎをとどめて、それを「絶対」のものとすべく懸命に急いできたが、なお果たせない。</p><p> </p><p><br></p><p>その一方で、近代はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出して、人の個人幻想や対幻想を消滅させ、また共同幻想を「絶対」のものとする手筈を整えつつある。</p><p>AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の個人幻想・対幻想の心の世界はない。</p><p>AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の共同幻想を植え付けることができる。</p><p> </p><p><br></p><p>しかし、近代が、AI人工知能と万能細胞による永遠の生命体を創出すれば、それは近代そのものの終焉であり、人の歴史の終焉となる。</p><p> </p><p><br></p><p>近代は、近代がなお生き延びるためには、近代みずからによって、人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、「絶対」の共同幻想を作り出さなければならない宿命にある。</p><p> </p><p> </p><p><p> </p><p></p></p><p><br></p><p><br></p><p>先の大戦が終わって７０年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「ジャズ④」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5557036/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5557036</id><summary><![CDATA[  さっきから気になっていた。チック・コリアの「スペイン」をやりはじめてインプロに入ったときあたりから、ときおり、トン、トン、と小さな音が聞こえてきて、気になっていた。 「スペイン」を弾き終わったところで、まばらな拍手に応えるふうにしてそれとなく薄暗い客席を見まわした。 わりとステージに近い丸テーブルの上に透き通るほどに白くて華奢な手が、ぽっと仄かに浮かんで見えて、人差し指がちょいちょいと上下していた、 ああ、あれだ。   そう思っても相手は客だ、それ以上はない、ちょいと居ずまいを整えて、次、キースの「マイ・ソング」に移った。   その夜はほぼ満席の客の入りだったし、客筋もなかなかだった。 ーキースだよね、ここで「ケルン」なんてどう？なんて、からかってくる酔客もいたけど、 ーキース・ジャレットですね、じゃ「カントリー」いきましょう。って適当にかわすと、結構な具合に盛り上がってくれた。 まあ、こっちもひさかたの、弾きまくりジンジン、ってステージだった。     ホテルに戻ってエレベーターに向かうところで、フロントの男が思わせぶりな目配せをくれたので、ロビーに眼をやった。 窓際のソファーに伏し目がちに座っていた人の右の手がわずかに遠慮がちに挙がった。あの、透き通るほどに白くて華奢な手だった。 でもそれっきり、たちあがる気配もない。 埒あけに声かけしてみた。 ーなんか用でしたか？   ーいえ、特にです。 と、こちらに向けられたその眼には覚えがあった。 たしか以前どこかで、この眼で見られたことがあった、こっちに向けられたのに思わず後ろを振り返ってしまったあの眼、あのときの眼だった。 でもいつだったかどこでだったか思い出せない。   ーええっと、それで、あなたは？  ーあのー、自己紹介はナシってことにしてるんですが、ダメですか？ ーうん、それはいいけど、　どうしてナシか、って話もナシかな？  ーいや、いいですよ、　まあ、自分で自分のことよくわからない、からかな、　いや、もうちょいマジにいきます、　「私、なになにです」なんていう、そういうたぐいの言葉は捨てました、　ってことで、どうでしょう？  ーうん、とりあえずオーケー、ってことでいいけど、　前に会ったことありました？　  ーえっ、ええ、お見かけしたことはあります、　New Orleansです、Preservationでした。  あ、そうか、ニューオリンズだったか、あそこは、まあ、思い出したくない、とっさにそこはスルーして、ちょっと斜めにふってみた。 ーあなた、アメリカ？  ーそれって、国籍とかってやつですか？ ーうん、まあ、いや、ニューオリンズとか発音がネイティブっぽかったから。 ーさっきお願いしたばかりですけど、　自己紹介はナシでって。   話を変えるしかない。  ー うん、　で、なんで、わたしに？ ー聞いてた通りでした、   半音はずし、してましたね。  「マイ・ソング」はキース・ジャレット完コピだから、「ケルン」どう、なんてからかわれたのはいいとして、「半音はずし」か、  ーあれ、アドリブのところで和音、半音はずしてますよね。 ーああ、そこでトン、トン、やってたわけか、　うん、それで？ ーそれで、って、　だから、いいんです、それで、　トン、トンで、もうそれでいいんです。　 ーなにが？　なにが、それでいいの？ ーなにが、じゃなくて、　それでオーケーってことです。　だって、調子はずしのジャズで、もう一個はずしたくての半音はずし、でしょう、　それに合わせてトン、トン、ってやったんです、　それでもういいんです。　 いや、こっちはそうでもないかな、って、言いかけたときの着信音だった。   メールの着信なのかスマホをちらっと見ると、 ーあ、今日は、これで帰ります、　それでは、　ごきげんよう。 というまに、スッといなくなってしまった。     部屋に戻って思いっ切りシャワーを浴びた。 いつもはこれでスッキリする。 今日はジンジンのステージだったから気分は悪くないのに、いまいちスッキリしない。 さっきの「半音はずし」か。  それにしてもなんともいいようのない不思議な雰囲気に包まれた人だった。ほどよくまるく、ほどよく整った顔立ちで、こざっぱりとほどよく髪を刈り上げていて、穏やかな中音のほどよい声質だった。年嵩とか男なのか女なのかもわからなかった。 スッキリしないのはこれだなって思いあたったところで、ついと、あのシーンが浮かんだ。 レストランでケイト・ブランシェットがルーニー・マーラ をじっと見つめながら、「あなたって不思議な人ね」、そして、くっと一呼吸おいて、”Flung out of space” 字幕ではたしか「空から落ちてきたよう」ってあった、それでもいいけど、あのケイト・ブランシェットは格別だ、あくまで、 “Flung out of space”、ってことにしている。ああ、そうか、これじゃないか、あの「半音はずし」は、”Flung out of space”、じゃないか。  少し無理な気はしたけど、ほかに思いあたらないからそれでいいか、ってことにした。  となると、とりあえずスッキリとした。     シャワーのあとのビールがたまらない。  今日は、弾きまくりジンジンのステージだった。 それに、“Flung out of space”だった。 その別れに、”ごきげんよう” だ。   これはこれは、なんとも気分がいい。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-08-15T08:35:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:23:45+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>さっきから気になっていた。</p><p>チック・コリアの「スペイン」をやりはじめてインプロに入ったときあたりから、ときおり、トン、トン、と小さな音が聞こえてきて、気になっていた。</p><p> </p><p><br></p><p>「スペイン」を弾き終わったところで、まばらな拍手に応えるふうにしてそれとなく薄暗い客席を見まわした。</p><p> </p><p><br></p><p>わりとステージに近い丸テーブルの上に透き通るほどに白くて華奢な手が、ぽっと仄かに浮かんで見えて、人差し指がちょいちょいと上下していた、</p><p> </p><p>ああ、あれだ。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p> </p><p>そう思っても相手は客だ、</p><p>それ以上はない、</p><p><br></p><p>ちょいと居ずまいを整えて、次、キースの「マイ・ソング」に移った。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>その夜はほぼ満席の客の入りだったし、客筋もなかなかだった。</p><p> </p><p>ーキースだよね、ここで「ケルン」なんてどう？</p><p>なんて、からかってくる酔客もいたけど、</p><p> </p><p>ーキース・ジャレットですね、じゃ「カントリー」いきましょう。</p><p>って適当にかわすと、結構な具合に盛り上がってくれた。</p><p> </p><p>まあ、こっちもひさかたの、弾きまくりジンジン、ってステージだった。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>ホテルに戻ってエレベーターに向かうところで、フロントの男が思わせぶりな目配せをくれたので、ロビーに眼をやった。</p><p> </p><p><br></p><p>窓際のソファーに伏し目がちに座っていた人の右の手がわずかに遠慮がちに挙がった。</p><p>あの、透き通るほどに白くて華奢な手だった。</p><p> </p><p>でもそれっきり、たちあがる気配もない。</p><p> </p><p>埒あけに声かけしてみた。</p><p> </p><p><br></p><p>ーなんか用でしたか？</p><p> </p><p> </p><p> ーいえ、特にです。</p><p> </p><p>と、こちらに向けられたその眼には覚えがあった。</p><p> </p><p>たしか以前どこかで、この眼で見られたことがあった、</p><p>こっちに向けられたのに思わず後ろを振り返ってしまったあの眼、</p><p>あのときの眼だった。</p><p> </p><p><br></p><p>でもいつだったかどこでだったか思い出せない。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> ーええっと、それで、あなたは？</p><p> </p><p> ーあのー、自己紹介はナシってことにしてるんですが、ダメですか？</p><p> </p><p>ーうん、それはいいけど、</p><p>　どうしてナシか、って話もナシかな？</p><p> </p><p> ーいや、いいですよ、</p><p>　まあ、自分で自分のことよくわからない、からかな、</p><p>　いや、もうちょいマジにいきます、</p><p>　「私、なになにです」なんていう、そういうたぐいの言葉は捨てました、</p><p>　ってことで、どうでしょう？</p><p> </p><p> ーうん、とりあえずオーケー、ってことでいいけど、</p><p>　前に会ったことありました？　</p><p> </p><p> </p><p>ーえっ、ええ、お見かけしたことはあります、</p><p>　New Orleansです、Preservationでした。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>あ、そうか、ニューオリンズだったか、</p><p>あそこは、まあ、思い出したくない、</p><p>とっさにそこはスルーして、ちょっと斜めにふってみた。</p><p> </p><p><br></p><p>ーあなた、アメリカ？</p><p> </p><p> ーそれって、国籍とかってやつですか？</p><p> </p><p>ーうん、まあ、いや、ニューオリンズとか発音がネイティブっぽかったから。</p><p> </p><p>ーさっきお願いしたばかりですけど、</p><p>　自己紹介はナシでって。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 話を変えるしかない。 </p><p> </p><p><br></p><p>ー うん、</p><p>　で、なんで、わたしに？</p><p> </p><p>ー聞いてた通りでした、</p><p>   半音はずし、してましたね。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「マイ・ソング」はキース・ジャレット完コピだから、「ケルン」どう、なんてからかわれたのはいいとして、「半音はずし」か、</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>ーあれ、アドリブのところで和音、半音はずしてますよね。</p><p> </p><p>ーああ、そこでトン、トン、やってたわけか、</p><p>　うん、それで？</p><p> </p><p>ーそれで、って、</p><p>　だから、いいんです、それで、</p><p>　トン、トンで、もうそれでいいんです。</p><p>　</p><p> ーなにが？</p><p>　なにが、それでいいの？</p><p> </p><p>ーなにが、じゃなくて、</p><p>　それでオーケーってことです。</p><p>　だって、調子はずしのジャズで、もう一個はずしたくての半音はずし、でしょう、</p><p>　それに合わせてトン、トン、ってやったんです、</p><p>　それでもういいんです。</p><p>　</p><p> </p><p>いや、こっちはそうでもないかな、</p><p>って、言いかけたときの着信音だった。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> メールの着信なのかスマホをちらっと見ると、</p><p> </p><p>ーあ、今日は、これで帰ります、</p><p>　それでは、</p><p>　ごきげんよう。</p><p> </p><p>というまに、スッといなくなってしまった。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>部屋に戻って思いっ切りシャワーを浴びた。</p><p> </p><p>いつもはこれでスッキリする。</p><p> </p><p><br></p><p>今日はジンジンのステージだったから気分は悪くないのに、いまいちスッキリしない。</p><p> </p><p>さっきの「半音はずし」か。</p><p> </p><p><br></p><p> それにしてもなんともいいようのない不思議な雰囲気に包まれた人だった。</p><p>ほどよくまるく、ほどよく整った顔立ちで、こざっぱりとほどよく髪を刈り上げていて、穏やかな中音のほどよい声質だった。</p><p>年嵩とか男なのか女なのかもわからなかった。</p><p> </p><p><br></p><p>スッキリしないのはこれだなって思いあたったところで、ついと、あのシーンが浮かんだ。</p><p> </p><p><br></p><p>レストランでケイト・ブランシェットがルーニー・マーラ をじっと見つめながら、</p><p>「あなたって不思議な人ね」、そして、</p><p>くっと一呼吸おいて、”Flung out of space”</p><p> </p><p><br></p><p>字幕ではたしか「空から落ちてきたよう」ってあった、<br></p><p>それでもいいけど、あのケイト・ブランシェットは格別だ、</p><p>あくまで、 “Flung out of space”、ってことにしている。</p><p><br></p><p>ああ、そうか、これじゃないか、</p><p>あの「半音はずし」は、”Flung out of space”、じゃないか。</p><p> </p><p> </p><p>少し無理な気はしたけど、ほかに思いあたらないからそれでいいか、ってことにした。</p><p> </p><p> </p><p>となると、とりあえずスッキリとした。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>シャワーのあとのビールがたまらない。<br></p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>今日は、弾きまくりジンジンのステージだった。</p><p> </p><p>それに、“Flung out of space”だった。</p><p> </p><p>その別れに、</p><p>”ごきげんよう” だ。</p><p> </p><p> </p><p><p> </p><p></p></p><p><br></p><p>これはこれは、なんとも気分がいい。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「永遠」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5557017/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5557017</id><summary><![CDATA[  ”” 　また見つかった、　何が、永遠が、　海と溶け合う太陽が。　独り居の夜も　燃える日も　心に掛けぬお前の祈念を、　永遠の俺の心よ、かたく守れ。　人間どもの同意から　月並みな世の楽しみから　お前は、そんなら手を切って、　飛んで行くんだ・・・。　・・・もとより希望があるものか　立ち直る筋もあるものか、　学問しても忍耐しても、　いずれ苦痛は必定だ。　明日という日があるものか、　深紅の燠の繻子の肌、　それ、そのあなたの灼熱が、　人の務めというものだ。　また見つかった、　－何が、－永遠が、　海と溶け合う太陽が。””（アルチュール・ランボー（小林秀雄・訳）「永遠」『地獄の季節』）       人は心情を持て余す。 「もとよりありもしない希望」という未来を信じてしまえば、「もとよりありもしない希望」を絶って過去を捨てなければ、人はその心情を持て余す。  人は持て余す心情に突き動かされて言葉を紡ぎ文字を書き付ける。  なのに、言葉や文字は、その心情を包摂することはない。その心情を分断して断片とするだけだ。  もとより、人の言葉と文字は、この世界を包摂することはない。この世界を分断して断片とするだけだ。  人の言葉と文字は、人の世で「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸としてある。 人の言葉と文字は、いまの現在にはない、その在り処は過去と未来にある。 人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で過去を虚構する。人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で未来を虚構する。    人は、言葉と文字で自然を疎外して、自然から截然として疎外されている。自然は「おのずからある」として、この世界を包摂する。 この世界を包摂する自然は、その分断と断片である人の言葉と文字を受けつけない。この世界を包摂する自然は、「おのずからある」ものとして、いまの現在であり、過去も未来もない。 この世界のまったき包摂は、「永遠」である。過去も未来もない、いまの現在は、「永遠」である。     　また見つかった、　何が、永遠が、　海と溶け合う太陽が。自然の海と太陽は溶け合って、分断と断片である人の言葉と文字を超然と凌駕し、この世界の包摂のさまを開顕する。自然の海と太陽は溶け合って、在り処を過去と未来とする人の言葉と文字を厳然と峻拒し、この世界の永遠のさまを開顕する。広大無辺な海のはるか彼方に赫々たる太陽が沈みこみ溶けて行く、また、見つかった、「永遠が」    　独り居の夜も　燃える日も　心に掛けぬお前の祈念を、　永遠の俺の心よ、かたく守れ。 人は、その在り処が未来の「お前の祈念」など心に留めることはない。「お前の祈念は」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかに晒されてあるだけだ。「独り居の夜」も「燃える日」もいまの現在としてある、「永遠」の一日だ。また、「永遠」を見つけた、その「永遠の心」は、「お前の祈念を守ってくれる」。     　人間どもの同意から　月並みな世の楽しみから　お前は、そんなら手を切って、　飛んで行くんだ・・・。「お前の祈念」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」で喰い散らかされた言葉と文字のなかに消え行く運命にある。「お前の祈念を守ってくれる」のは「永遠の心」だ。その「永遠」を見つけに、お前も「飛んで行くんだ」。       ・・・もとより希望があるものか　立ち直る筋もあるものか、　学問しても忍耐しても、　いずれ苦痛は必定だ。 「希望」も、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにある。その「希望」が、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」を拒絶してその彼方へと投げかけられたとしても、すぐに「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」がその危険な匂いを嗅ぎつけて喰い散らかす。喰い散らかされた残骸から立ち上がるすべはない。「学問しても忍耐しても」なお、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」が襲いかかって喰い散らかす。未来を信じるかぎり「いずれ苦痛は必定だ」。    　明日という日があるものか、　深紅の燠の繻子の肌、　それ、そのあなたの灼熱が、　人の務めというものだ。「明日」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにあるだけだ。「永遠」を見つけたら、「明日という日があるものか」たったのいまの現在があるだけだ。 いまの現在にこそ、「深紅の燠の繻子の肌」を輝かせ、その「灼熱」に身をさらす、それが「人の務めというものだ」。     　また見つかった、 　－何が、－永遠が、     　海と溶け合う太陽が。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-08-06T08:40:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:19:24+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>”” </p><p>　また見つかった、</p><p>　何が、永遠が、</p><p>　海と溶け合う太陽が。</p><p>　独り居の夜も</p><p>　燃える日も</p><p>　心に掛けぬお前の祈念を、</p><p>　永遠の俺の心よ、かたく守れ。</p><p>　人間どもの同意から</p><p>　月並みな世の楽しみから</p><p>　お前は、そんなら手を切って、</p><p>　飛んで行くんだ・・・。</p><p>　・・・もとより希望があるものか</p><p>　立ち直る筋もあるものか、</p><p>　学問しても忍耐しても、</p><p>　いずれ苦痛は必定だ。</p><p>　明日という日があるものか、</p><p>　深紅の燠の繻子の肌、</p><p>　それ、そのあなたの灼熱が、</p><p>　人の務めというものだ。</p><p>　また見つかった、</p><p>　－何が、－永遠が、</p><p>　海と溶け合う太陽が。</p><p>””</p><p>（アルチュール・ランボー（小林秀雄・訳）「永遠」『地獄の季節』）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>人は心情を持て余す。</p><p> </p><p><br></p><p>「もとよりありもしない希望」という未来を信じてしまえば、</p><p>「もとよりありもしない希望」を絶って過去を捨てなければ、</p><p>人はその心情を持て余す。</p><p> </p><p> </p><p>人は持て余す心情に突き動かされて言葉を紡ぎ文字を書き付ける。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>なのに、言葉や文字は、その心情を包摂することはない。</p><p>その心情を分断して断片とするだけだ。</p><p> </p><p> </p><p>もとより、人の言葉と文字は、この世界を包摂することはない。</p><p>この世界を分断して断片とするだけだ。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>人の言葉と文字は、人の世で「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸としてある。</p><p> </p><p>人の言葉と文字は、いまの現在にはない、</p><p>その在り処は過去と未来にある。</p><p> </p><p>人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で過去を虚構する。</p><p><br></p><p>人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で未来を虚構する。</p><p> </p><p> </p><p>  </p><p>人は、言葉と文字で自然を疎外して、自然から截然として疎外されている。</p><p><br></p><p>自然は「おのずからある」として、この世界を包摂する。</p><p> </p><p>この世界を包摂する自然は、その分断と断片である人の言葉と文字を受けつけない。</p><p>この世界を包摂する自然は、「おのずからある」ものとして、いまの現在であり、過去も未来もない。</p><p> </p><p>この世界のまったき包摂は、「永遠」である。</p><p>過去も未来もない、いまの現在は、「永遠」である。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>　また見つかった、</p><p>　何が、永遠が、</p><p>　海と溶け合う太陽が。</p><p><br></p><p>自然の海と太陽は溶け合って、分断と断片である人の言葉と文字を超然と凌駕し、この世界の包摂のさまを開顕する。</p><p>自然の海と太陽は溶け合って、在り処を過去と未来とする人の言葉と文字を厳然と峻拒し、この世界の永遠のさまを開顕する。</p><p>広大無辺な海のはるか彼方に赫々たる太陽が沈みこみ溶けて行く、</p><p>また、見つかった、</p><p>「永遠が」</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>　独り居の夜も</p><p>　燃える日も</p><p>　心に掛けぬお前の祈念を、</p><p>　永遠の俺の心よ、かたく守れ。</p><p><br></p><p> 人は、その在り処が未来の「お前の祈念」など心に留めることはない。</p><p>「お前の祈念は」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかに晒されてあるだけだ。</p><p>「独り居の夜」も「燃える日」もいまの現在としてある、「永遠」の一日だ。</p><p>また、「永遠」を見つけた、</p><p>その「永遠の心」は、「お前の祈念を守ってくれる」。</p><p> </p><p>  </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>　人間どもの同意から</p><p>　月並みな世の楽しみから</p><p>　お前は、そんなら手を切って、</p><p>　飛んで行くんだ・・・。</p><p><br></p><p>「お前の祈念」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」で喰い散らかされた言葉と文字のなかに消え行く運命にある。</p><p>「お前の祈念を守ってくれる」のは「永遠の心」だ。</p><p>その「永遠」を見つけに、お前も「飛んで行くんだ」。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>   ・・・もとより希望があるものか</p><p>　立ち直る筋もあるものか、</p><p>　学問しても忍耐しても、</p><p>　いずれ苦痛は必定だ。</p><p> </p><p><br></p><p>「希望」も、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにある。</p><p>その「希望」が、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」を拒絶してその彼方へと投げかけられたとしても、すぐに「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」がその危険な匂いを嗅ぎつけて喰い散らかす。</p><p>喰い散らかされた残骸から立ち上がるすべはない。</p><p>「学問しても忍耐しても」なお、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」が襲いかかって喰い散らかす。</p><p>未来を信じるかぎり「いずれ苦痛は必定だ」。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>　明日という日があるものか、</p><p>　深紅の燠の繻子の肌、</p><p>　それ、そのあなたの灼熱が、</p><p>　人の務めというものだ。</p><p><br></p><p>「明日」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにあるだけだ。</p><p>「永遠」を見つけたら、「明日という日があるものか」</p><p>たったのいまの現在があるだけだ。</p><p> いまの現在にこそ、「深紅の燠の繻子の肌」を輝かせ、その「灼熱」に身をさらす、</p><p>それが「人の務めというものだ」。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>　また見つかった、</p><p> </p><p>　－何が、－永遠が、</p><p> </p><p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p></p></p><p>　海と溶け合う太陽が。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「ジャズ③」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556993/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556993</id><summary><![CDATA[ さきほど仕事を決めに出かけたとき、アタリは付けておいた。 途中、あ、ココだな、って風情の路地があるのを見逃してなかった。  それにしてもいったい、知らない街を歩き始めるとあの「遠くへいきたい」が聞こえてくるのは、どういうことか。 どうして知らない街へ行きたくなる、どうして遠くへ行きたくなるのか、って考えたことはある。でも、なに、そんなもの気分の問題じゃないか、そんな気分になるなら、そのままにそれにしたがうのが一番ってことにした。  それにしてもいい曲だ、六八コンビの永六輔作詞、中村八大作曲で、歌はジェリー藤尾だった。 どうしてあんな歌が作れるのか、どうしてあんなふうに歌えるのか、って考えたことがある。そのときは、あの人たちの持って生まれた感性があるとしても、あのころの時代の環境がその感性を世界に向けて広く大きく開かせたものだ、ってな、それなりの結論にしていたと思う。でも、そんなことよりなによりも、いい歌はただそのまま聞いてそのままそれに浸っているのが一番ってことに変わりはなかった。    この稼業だと、いまでもはじめての知らない街にいくことがけっこうある。 ここもはじめてだった。ホテルを出てさまよいだすと、もうおきまりの「遠くへ行きたい」が耳元で流れはじめた。  先ほどアタリをつけておいた路地に入ると、すぐ右手に3巾の暖簾がそよりと揺らめいていた。客の手で汚れてよれよれの麻生地のまんなか巾に”酒”のただ一文字だ。 これはいけそうだ。 ちょいと屈んで木戸を引くと、たしかな頑固面の親爺がカウンターの奥からじろっと眼をくれて、ぶっきらぼうに、ーへい、らっしゃい。 ああ、これはいける。  ー親爺さんの一番気にいってるやつ、冷やでくれないか。 ーそうかい。このそっけなさも気に入った。 お通しからして、こだわっていた。  ともかく日本酒は酔いがまわる、２合目を飲みほすかってあたりで、しっかりじんわり酔ってきた。 ここでなにか曲でもかかればいうことなしだったけど、音は親爺の趣味じゃなさそうだ。  そのうち、ゆらゆら体がゆれだし、ああこのまま寝落ちしてしまうか、あぶないな、ってすんでのところだった。 ー遅い！さっきまでの調子と違う親爺の、小さかったが怒りのこもった声に驚いて、カウンターに落としていた顔をふいとあげた。  親爺の娘らしかった、えい面倒とばかりに髪を後ろで輪ゴムでクイと束ねて、サッパリと洗い晒した割烹着で、親爺の声など聞こえないふうで、俯きながら洗いものをやっていた。  子は親のことはわからないし、親は子のことがわからない。だからしょうがない、喧嘩してもしょうがない、それでも喧嘩するしかないのが人の世だ。こっちも、なんだかんだあっても、そんな人の世で生きてる。そう思えば、あとは限られる。 そう思って、ジャズをやりはじめた。ジャズのピアノ弾きで人の世を流れ歩いてきた。   娘が洗いものを終えたらしく、手拭いに手をやりながらこっちのカウンターを見遣って、「なにかお造りしましょうか」って、その襟元に粋筋がスッと浮かんだかにみえたが、そのすぐ横で親爺の変わらぬ頑固面がそっぽを向いていた。 ーいや、    ごちそうさま、    お勘定。     店を出ると夜の闇がすっかりと深まっていた。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-08-01T08:15:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:14:46+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p> </p><p>さきほど仕事を決めに出かけたとき、アタリは付けておいた。</p><p> </p><p><br></p><p>途中、あ、ココだな、って風情の路地があるのを見逃してなかった。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>それにしてもいったい、知らない街を歩き始めるとあの「遠くへいきたい」が聞こえてくるのは、どういうことか。</p><p> </p><p>どうして知らない街へ行きたくなる、どうして遠くへ行きたくなるのか、って考えたことはある。</p><p>でも、なに、そんなもの気分の問題じゃないか、そんな気分になるなら、そのままにそれにしたがうのが一番ってことにした。</p><p> </p><p> </p><p>それにしてもいい曲だ、六八コンビの永六輔作詞、中村八大作曲で、歌はジェリー藤尾だった。</p><p> </p><p>どうしてあんな歌が作れるのか、どうしてあんなふうに歌えるのか、って考えたことがある。</p><p>そのときは、あの人たちの持って生まれた感性があるとしても、あのころの時代の環境がその感性を世界に向けて広く大きく開かせたものだ、ってな、それなりの結論にしていたと思う。</p><p>でも、そんなことよりなによりも、いい歌はただそのまま聞いてそのままそれに浸っているのが一番ってことに変わりはなかった。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>この稼業だと、いまでもはじめての知らない街にいくことがけっこうある。</p><p> </p><p><br></p><p>ここもはじめてだった。</p><p><br></p><p>ホテルを出てさまよいだすと、もうおきまりの「遠くへ行きたい」が耳元で流れはじめた。</p><p> </p><p> </p><p>先ほどアタリをつけておいた路地に入ると、すぐ右手に3巾の暖簾がそよりと揺らめいていた。</p><p><br></p><p>客の手で汚れてよれよれの麻生地のまんなか巾に”酒”のただ一文字だ。</p><p> </p><p>これはいけそうだ。</p><p> </p><p><br></p><p>ちょいと屈んで木戸を引くと、たしかな頑固面の親爺がカウンターの奥からじろっと眼をくれて、ぶっきらぼうに、</p><p>ーへい、らっしゃい。</p><p> </p><p>ああ、これはいける。</p><p> </p><p> </p><p>ー親爺さんの一番気にいってるやつ、冷やでくれないか。</p><p> </p><p>ーそうかい。</p><p>このそっけなさも気に入った。</p><p> </p><p><br></p><p>お通しからして、こだわっていた。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>ともかく日本酒は酔いがまわる、</p><p>２合目を飲みほすかってあたりで、しっかりじんわり酔ってきた。</p><p> </p><p>ここでなにか曲でもかかればいうことなしだったけど、音は親爺の趣味じゃなさそうだ。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>そのうち、ゆらゆら体がゆれだし、ああこのまま寝落ちしてしまうか、あぶないな、ってすんでのところだった。</p><p> </p><p>ー遅い！</p><p>さっきまでの調子と違う親爺の、小さかったが怒りのこもった声に驚いて、カウンターに落としていた顔をふいとあげた。</p><p> </p><p> </p><p>親爺の娘らしかった、</p><p>えい面倒とばかりに髪を後ろで輪ゴムでクイと束ねて、サッパリと洗い晒した割烹着で、親爺の声など聞こえないふうで、俯きながら洗いものをやっていた。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>子は親のことはわからないし、親は子のことがわからない。</p><p>だからしょうがない、喧嘩してもしょうがない、</p><p>それでも喧嘩するしかないのが人の世だ。</p><p>こっちも、なんだかんだあっても、そんな人の世で生きてる。</p><p>そう思えば、あとは限られる。</p><p> </p><p>そう思って、ジャズをやりはじめた。</p><p>ジャズのピアノ弾きで人の世を流れ歩いてきた。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>娘が洗いものを終えたらしく、手拭いに手をやりながらこっちのカウンターを見遣って、「なにかお造りしましょうか」って、その襟元に粋筋がスッと浮かんだかにみえたが、そのすぐ横で親爺の変わらぬ頑固面がそっぽを向いていた。</p><p> </p><p><br></p><p>ーいや、</p><p>    ごちそうさま、</p><p>    お勘定。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>店を出ると夜の闇がすっかりと深まっていた。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「ジャズ②」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556974/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556974</id><summary><![CDATA[   ホテルでは、部屋に帰ると、着ていたものを一気に脱ぎ捨て、バルブ全開のシャワーをしたたかに浴びて、缶ビールをプシュ、ごくん、プアー、ってコースを鉄板のルーティンとしている。 この極めつけのコースは、缶ビールがキンキンに冷えてるとサイコー、となる。 今日のはコンビニで買ってきたやつだったから、まずまずっていうしかなかったけど、この稼業だ、このルーティンだけは外せない。  2本目でゆらゆらとなり、３本目をプシュっとやったときには、もうそばのベッドが悩ましげに手招きをはじめていた。 せっかくの招待だ、ことわるわけもない。 倒れこむとあっという間、心ごと体ごと、もうこれいじょう生き縋ることもないかと思えるほどの勢いで、スー、と深ーく、落ちていった。   隣の部屋に客が入ってきたかなにかの物音で眼が覚めたようだった。もう、５時をすっかりまわっていた。ああ、やっぱりあの人は来なかったな、と思えるのにじゅうぶんな時間となっていた。 約束してたわけじゃない。昨日チェックインしたときフロントから、”オースガさんから明日４時というメッセージが届いてます”、といわれただけだ。  約束なんかまずしないことにしている。 たまに心と体をジンジンさせるだけのことだ。で、そのときだけだ、まんざらでもない、って思えるのは。約束なんかして、あとのことに気がいってしまうと、いま、そのときのジンジンもそぞろになってしまう。 だから、仕事のほかで約束はしないことにしている。  たぶんあの人もそう、約束なんかしないんだ。 これまで３回ほど”明日何時”なんてメッセージを残すだけだった。それで、それがあたりまえのように、やってきたことは一度もなかった。 こんども来なかった。    そんなあの人とは２年ほど前に出会っている。  雇われたクラブに早入りすると、なにやら事務室あたりが騒がしくてちょっとそば耳をたててみた。どうやら、前のピアノマンらしかった。客とトラブってクラブマネージャーから首にされたらしかった。 これはひとごとじゃないな、こっちも、ちかごろのわけのわからない客とトラブったからって首になりたくなんかないからな、と一人ごちの思いがフット湧いてしまって、ドアをわざと強めにノックするなりドンと開けて、いきなり言ってみた。 ーマネージャー、なんかあったのか  不意を食らったマネージャーはついと眼をそらしてその仏頂面をなお顰めてみせた。 数秒の間が抜けてしまって、あれっ、てとまどったところ、こっちに小さなまるい背中を向けたままの男が、誰にいうふうでもなく、ぼそっと呟いた。 ーいいんだよ、　俺のことだ。 それがあの人だった。業界ではそれなりに知られた、”オースガ”って名乗ってる、そのときにはもう老残しきりの男だった。  次の日、２回目のステージが掃けて裏口から帰ろうとしたとき、暗がりのなかに昨日の小さなまるい背中がほの見えた。首をちょっと左に傾げて、人差し指と親指で丸括弧をつくった左手首をクイッと手前に返すと一人スタスタ歩きはじめた。 察しはついた。 ジジッ、ジジッと音立ててまだ生きてるぞってさまのネオンが、表玄関ドアになんとか引っ掛かりしている、こじんまりのショットバーだった。カウンターのなかで腰掛けてた、すっかり白髪の眼窩の奥まった老人がすっと立ち上がってあの人を迎えた。 ーマスター、ジムビームのブラックあったかい、　ストレート、チェイサーなしだ。    君は。 ーじゃ、こっちも同じやつで。 マスターも察しがいい。こっちにはさりげなくチェイサーが添えられた。   ”オースガ”って、「オスカー・ピーターソン」バレバレなのに、飲みのほうは「ストレイト、ノー  チェイサー」って「モンク」なのがおかしくて、ツッコミ入れようかと思ったが、あの人がカウンターのほうへ眼をやったきりそ知らぬふうだったのでやめておいた。  それからツーラウンドばかり、二人、ほぼ同じタイミングで「マスター、同じやつ」、っていったきりだった。それぞれカウンターのあらぬほうを見つめるばかりして、たがいに眼を合わせることもなく、話をかわすこともなかった。   ーじゃ、帰ろうか、　ああ、ここはいいから。　そんなふうにあの人が言ったのか、そんな素振りをしただけだったのか、どっちにしてもあの人に促されてショットバーを出ると、こっちの２、３歩前を歩きだしたあの人は、その後ろ姿のまま、首をちょっと左に傾げ、じゃーな、とかるく左手を翳すや、スタスタと駅のほうへと去っていった。    あれから３度ほど、あの人は”明日何時”なんてメッセージをよこしてきただけだ。そして、それがあたりまえのように、ほんとにやってきたことは一度もなかったし、こんども来なかった。   約束などしない。たまに心と体をジンジンさせるだけだ。そのために、ほんとはありもしない未来なんていう幻は捨てるにこしたことない。  まだ残る酔いと眠気に惑わされる心のなかで、とうに未来など捨ててなお老残を生きている、あの人の、あの小さなまるい背中が浮かんでは消えた。     さて、外がそろそろと暮れなずんできた。  たまさかのジンジンにありつけるか、ちょっと出掛けてみることにしよう。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-07-25T08:20:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:10:26+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「ジャズ」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556955/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556955</id><summary><![CDATA[  裏口のアルミドアのノブがすんなりと回ったためしがなかった。これもだ。もういちど手指に力をこめて回すとギッと呻いて開いた。 ーなにか用かーピアノだ、聞いてなかったかーああ、お前か、あっちだ  外はまだ昼下がりというのに、指差された奥の部屋は暗くて薄ぼんやりみえた。どこもそうだ、こういったところの事務室はどういうわけか奥まったところにある。 いつものように、小さくコンとノックした。 ーいいよ、入って ああ、 やっぱり。 燻みきった頬のこけた５０がらみの男が椅子からなげやりに足を放りだして、歪めた口元にはシケモクを咥えている。 ー９時から２回だ、１ステージ１万だ、わかってるよなー客筋はどんなだーそんなこと聞くか　時代はとっくに変わったよな　誰もお前なんか知らないよ、まあ適当に合わせてくれ ーじゃ、ちょっと見てくるよ  事務室の隣のドアがステージの裏口だった。弛みきった袖幕を右手で跳ね上げて入ると、思ったよりステージは広めだった。客席は丸テーブル１０個ほど、せいぜい３０人程度で満席か。  ステージ左隅に、あちこち剥げ散らかした背高のアップライトが所在なげだった。ペダルもとうに艶を失って歪み傾いでいた。    アップライトにしては少し重みのある鍵盤蓋を開けて弾いてみて、わかった。弾いてみれば、いいやつはこっちの思いに弦が応える、弦がその響きで応える。  こいつはそれなりの代物だ。  べつにベーゼンなんかでなくても、いいやつはいい。   調律はいつも丸投げにしている。   ピアノで糊口をしのぐためには調法ってやつから逃れられないことはわかっている。なんとかそいつを壊してみたいと思ったことがあったが、しょせんそんなこと無理だとはわかっていた。ジェリー・リー・ルイスのようにプレイ中にピアノを燃やしてしまうわけにもいかない。  それでも、ジャズなんだ。いつだったかこれをやろうと思いはじめて、これまでやってきたのはジャズなんだ。   人はむやみに言葉を吐き散らかしてやたらと規則をつくりたがる。人の言葉ってやつには、ほとほとうんざりした。人がつくる規則ってやつには、ほとほとうんざりした。 でもそんなことはしょうがない、それが人の世だ。こっちも、なんだかんだあっても、そんな人の世で生きてる。そう思えば、あとは限られる。  ただ虚しく、気がつけば巨大な毒虫だったっていうザムザを生きるなんて気はさらさらなかった。 あとは、充実とまではいかなくても、毎日とはいかなくても、たまには心と体をジンジンさせながら、その虚しさの穴埋めでもしながらやっていける生業ってものがあれば、ってことだけだった。 そんなとき、これならなんとかなるかと思った。それがジャズ、だった。ジャズのピアノ弾きとしてこの人の世を流れ歩くことだった。  だから調律はいつも丸投げにしてきた。  いいやつは弾いてみればわかる。こいつはそれなりの代物だ。  いつまでかはわからない、でも、この代物に出逢ったんだ。まあ、明日からここでやってみよう。  ステージを出て事務室の外から声をかけた。  ー決めたよ。　明日、１回目は９時からだったよな。  ーおう、９時だ。　遅れたらそれっきりだからな。 燻んだ頬の咥え煙草の男の声が背後でくぐもりながら遠のいていった。   裏口のアルミドアは内側からはなんなく開いた。 コンビニに入ってすぐに冷えた缶ビール３本を手にしたが、つまみに迷った。柔いチーズはナシってところ、硬めのゴーダがあったのでそれを２つ拾い上げてレジに向かった。 ずっと昔、ちゃんとした食事をしなきゃ、っていわれた覚えはあるけど、気取りで生きていくにはそんなものはいらない、ってことにしている。  コンビニを出て、昨日チェックインした駅裏のビジネスホテルに戻ることにした。  あと１時間ほどしたらあの人が来ることになっている。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-07-20T08:30:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:06:57+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「ディオニュソス」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556941/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556941</id><summary><![CDATA[””「ディオニュソスはアジアから来た。この狂乱と淫蕩と生肉啖らいと殺人をもたらす宗教は、正に「魂」の必須な問題としてアジアから来たのである。理性の澄明をゆるさず、人間も神々も堅固な美しい形態の裡にとどまることをゆるさないこの狂熱が、あれほどにもアポロン的だったギリシャの野の豊穣を、あたかも天日を暗くする蝗の大群のように襲って来て、たちまち野を枯らし、収穫を啖らい尽くした・・・。」「忌まわしいもの、酩酊、死、狂気、病熱、破壊、・・・それらが人々をあれほど魅して、あれほど人々の魂を「外へ」と連れ出したのは何事だろう。どうして人々の魂はそんなにまでして、安楽な暗い静かな棲家を捨てて、外へ飛び出さなくてはならなかったのであろう。心はそれほどまでに平静な停滞を忌むのであろう。」「それは歴史の上に起こったことであり、個人の裡に起こることでもあった。人々はそうまでしなければどうしてもあの全円の宇宙に、あの全体に、あの全一に指を触れることができないと感じたからに違いない。酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせながら、・・・そうまでして、人々は『全体』へ自分のほんのつめ先でも引っかけかけたかったのにちがいない。」””（「暁の寺　豊穣の海（三）」三島由紀夫著　新潮文庫）     ””オリンポスの主神ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、、 ゼウスの子ティーターンの一柱であるプロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。ゼウスはさらに人類から火を取り上げたが、プロメーテウスは、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウを入れて点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。これ怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いた。プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった。プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令したという。ヘーシオドス『仕事と日』（47-105）によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物（＝パンドーラー）を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス（「甕」の意だが後代に「箱」といわれるようになる。）を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて甕を開いてしまう。すると、そこから様々な災い（エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど）が飛び出した。しかし、「ἐλπίς」（エルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」）のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。””（「プロメーテウス」Wikipediaからの抜粋）  ””ディオニュソスは、オリンポスの主神ゼウスとテーバイの王女セメレーの子である。ゼウスの妻へーラーは、夫の浮気相手であるセメレーを大変に憎んでいた。そこで、彼女に「あなたの愛人は、本当にゼウスその人かしら?」という疑惑を吹き込んだ。セメレーは内で膨らむ疑惑に耐えきれず、ゼウスに必ず願いを叶えさせると誓わせた上で、「ヘーラー様に会う時と同様のお姿でいらしてください」と願った。ゼウスは仕方無く雷霆を持つ本来の姿でセメレーと会い、人間であるセメレーはその光輝に焼かれて死んでしまう。ゼウスはヘルメースにセメレーの焼死体からディオニュソスを取り上げさせ、それを自身の腿の中に埋め込み、臨月がくるまで匿ったという。セメレーの姉妹であるイーノーに育てられたディオニュソスは長じて、ブドウ栽培などを身につけて、ギリシャやエジプト、シリヤなどを放浪しながら、神である父ゼウスから与えられたみずからの神性を認めさせるために、信者の獲得に勤しむことになる。彼には踊り狂う信者や、サチュロスたちが付き従い、その宗教的権威と魔術・呪術により、インドに至るまで征服した。また、自分の神性を認めない人々を狂わせたり、動物に変えるなどの力を示し、神として畏怖される存在ともなった。””（「ディオニュソス」Wikipediaからの抜粋）     「ディオニュソスはアジアから来た」 人間である母セメレーの子ディオニュソスは、神である父ゼウスによって、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる運命を与えられた。 宇宙の全体全一の全円であるカオス（混沌）から生まれ、またいつでも宇宙に駆け登りその宇宙の全体全一の全円に指先をかけることができる不死の神である父ゼウスは、オリンポスの丘にただ佇立したまま、その麓の大地の軛にあって生死の苦悩に蠢く人間世界を見下ろすばかりである。 みずからもその人間世界で苦悩しながらギリシャ、エジプト、シリアを彷徨していたディオニュソスは、ついに、父ゼウスのように、みずからも宇宙に駆け登り、その宇宙の全体全一の全円に指を触れることができる、自分のほんのつめ先でも引っかけることができるかもしれない、その秘儀を見い出した。 ディオニュソスは、醸造したブドウ酒を人々に大盤に振る舞い、人々の酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴のさまをみて、その宴によって、人間が「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を受け入れ、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら「火を使って武器を作り戦争をする」「災いをもたらす女性が住む」世界のただなかでもなお生きていくことができる、その人間救済の神性秘儀を見い出した。この人間救済の神性秘儀を獲得したディオニュソスはみずからの神性を誇示しながら、そのはるか遠いアジアはインドから、「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、父ゼウスらオリンポスの神々が佇立するオリンポスの丘へと駆け上がり、そしてオリンポスの丘から宇宙に一気に駆け登って、その宇宙の全体全一の全円に自分の指先をかけようと、また自分のほんのつま先でも引っかけようとしたのだ。       ””「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している。」「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた。」が、近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」である。近代「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」である。””（「性の歴史Ⅰ　知への意志」 ミシェル・フーコー著　渡辺守章訳　新潮社）     「近代社会は、・・・現実に、かつ直接的に倒錯している」 ディオニュソスはオリンポスの神々の仲間入りは果たしたもののそれら神々が住むオリンポスの丘の隅に席を与えられただけで、なおその中央には父ゼウスが、そしてあの冷徹な理性と流麗堅固の形式身体美に包まれたアポロンが佇立していた。 近代社会は密かにそのアポロンの理性による人間社会の統治理念を淵源としているかのようである。しかしアポロンの理性は神の理性であり、神の支配統治を拒否して人間中心主義（ヒューマニズム）を宣言した近代社会がその治世のよすがとする理性は人間の理性であって、その淵源は絶たれている。 人間を超越する神の理性は人間社会の統治理念として正立しても、人間が人間の理性によって人間社会を統治するとすれば、その理念は個々の人間に対して「現実に、かつ直接的に倒錯し」、また逆立する。 不死の神ではなく、生死常ならない人間社会では経世済民についての理念形式が求められ、人間の理性が推し進めた近代資本主義においては「人間の個々の身体は生産機関によって管理された形で組み込まれ、そして個々の人間の生殖と死亡は人口現象として経済的プロセスにはめ込まれる」。 人間を超越するアポロンの神の理性が許容し放置してきたとしても、近代資本主義のこの経世済民理念は、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀を許容することもまた放置することもできない。 近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」によって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀に立ち入り、そこに表象される「雑多な性的変種を生産し固定して」分析し、その分析にもとづいて「生産機関へ個々の人間の身体を管理して組み込み、個々の人間の生殖と死亡を人口統計してそれらを経済的プロセスにはめ込む」。 しかし、音楽や踊りや性は人間の個々の個人幻想でありまた相対者との対幻想であって、いかなる経済社会共同幻想や理念も、またいかなる技術や標準化あるいは統制によっても、それらの内実をその裡に組み込んだりはめ込んだりすることはできない。 近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励んでも、音楽や踊りや性など人間の個々の個人幻想やで相対者との対幻想の内実を掌握することはできない。近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励めば励むほど、人間社会は個々の人間の個人幻想、対幻想からの疎外を深め、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀から強く疎外される。 近代社会は、その理性が「現実に、かつ直接的に倒錯している」ことによって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀を受け入れることができず、いまなお、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」にあり、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる、その運命にあるままである。 近代社会はこの経済社会幻想の限界と矛盾の焦慮から「科学」という近代幻想によって人間の心身に「現実に、かつ直接的に」侵入し分析して、その限界と矛盾の消滅を企図しているが、その科学幻想の行く末は、その煩わしい限界と矛盾を生みだしている人間と人間社会そのものの消滅であり終焉である。  人間が、そして人間社会がなおある限り、人間は、人間社会はディオニュソスの人間救済の神性秘儀を求めつづける。   ディオニュソスはいまも「「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、アジアの野を、そして世界の野を駆け巡っている。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2018-02-05T08:25:00+00:00</published><updated>2019-01-13T08:03:10+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p>””</p><p>「ディオニュソスはアジアから来た。この狂乱と淫蕩と生肉啖らいと殺人をもたらす宗教は、正に「魂」の必須な問題としてアジアから来たのである。理性の澄明をゆるさず、人間も神々も堅固な美しい形態の裡にとどまることをゆるさないこの狂熱が、あれほどにもアポロン的だったギリシャの野の豊穣を、あたかも天日を暗くする蝗の大群のように襲って来て、たちまち野を枯らし、収穫を啖らい尽くした・・・。」</p><p>「忌まわしいもの、酩酊、死、狂気、病熱、破壊、・・・それらが人々をあれほど魅して、あれほど人々の魂を「外へ」と連れ出したのは何事だろう。どうして人々の魂はそんなにまでして、安楽な暗い静かな棲家を捨てて、外へ飛び出さなくてはならなかったのであろう。心はそれほどまでに平静な停滞を忌むのであろう。」</p><p>「それは歴史の上に起こったことであり、個人の裡に起こることでもあった。人々はそうまでしなければどうしてもあの全円の宇宙に、あの全体に、あの全一に指を触れることができないと感じたからに違いない。酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせながら、・・・そうまでして、人々は『全体』へ自分のほんのつめ先でも引っかけかけたかったのにちがいない。」</p><p>””</p><p>（「暁の寺　豊穣の海（三）」三島由紀夫著　新潮文庫）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>  ””</p><p>オリンポスの主神ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、、 ゼウスの子ティーターンの一柱であるプロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。</p><p>彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。</p><p>そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。</p><p>プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。</p><p>ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。</p><p>ゼウスはさらに人類から火を取り上げたが、プロメーテウスは、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウを入れて点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。</p><p>これ怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いた。</p><p>プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった。</p><p>プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令したという。</p><p>ヘーシオドス『仕事と日』（47-105）によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物（＝パンドーラー）を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。</p><p>そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス（「甕」の意だが後代に「箱」といわれるようになる。）を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。</p><p>美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。</p><p>そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて甕を開いてしまう。</p><p>すると、そこから様々な災い（エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど）が飛び出した。しかし、「ἐλπίς」（エルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」）のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。</p><p>こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。</p><p>””</p><p>（「プロメーテウス」Wikipediaからの抜粋）</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>””</p><p>ディオニュソスは、オリンポスの主神ゼウスとテーバイの王女セメレーの子である。</p><p>ゼウスの妻へーラーは、夫の浮気相手であるセメレーを大変に憎んでいた。</p><p>そこで、彼女に「あなたの愛人は、本当にゼウスその人かしら?」という疑惑を吹き込んだ。セメレーは内で膨らむ疑惑に耐えきれず、ゼウスに必ず願いを叶えさせると誓わせた上で、「ヘーラー様に会う時と同様のお姿でいらしてください」と願った。</p><p>ゼウスは仕方無く雷霆を持つ本来の姿でセメレーと会い、人間であるセメレーはその光輝に焼かれて死んでしまう。</p><p>ゼウスはヘルメースにセメレーの焼死体からディオニュソスを取り上げさせ、それを自身の腿の中に埋め込み、臨月がくるまで匿ったという。</p><p>セメレーの姉妹であるイーノーに育てられたディオニュソスは長じて、ブドウ栽培などを身につけて、ギリシャやエジプト、シリヤなどを放浪しながら、神である父ゼウスから与えられたみずからの神性を認めさせるために、信者の獲得に勤しむことになる。</p><p>彼には踊り狂う信者や、サチュロスたちが付き従い、その宗教的権威と魔術・呪術により、インドに至るまで征服した。</p><p>また、自分の神性を認めない人々を狂わせたり、動物に変えるなどの力を示し、神として畏怖される存在ともなった。</p><p>””</p><p>（「ディオニュソス」Wikipediaからの抜粋）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「ディオニュソスはアジアから来た」</p><p> </p><p>人間である母セメレーの子ディオニュソスは、神である父ゼウスによって、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる運命を与えられた。</p><p> </p><p>宇宙の全体全一の全円であるカオス（混沌）から生まれ、またいつでも宇宙に駆け登りその宇宙の全体全一の全円に指先をかけることができる不死の神である父ゼウスは、オリンポスの丘にただ佇立したまま、その麓の大地の軛にあって生死の苦悩に蠢く人間世界を見下ろすばかりである。</p><p> </p><p>みずからもその人間世界で苦悩しながらギリシャ、エジプト、シリアを彷徨していたディオニュソスは、ついに、父ゼウスのように、みずからも宇宙に駆け登り、その宇宙の全体全一の全円に指を触れることができる、自分のほんのつめ先でも引っかけることができるかもしれない、その秘儀を見い出した。</p><p> </p><p>ディオニュソスは、醸造したブドウ酒を人々に大盤に振る舞い、人々の酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴のさまをみて、その宴によって、人間が「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を受け入れ、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら「火を使って武器を作り戦争をする」「災いをもたらす女性が住む」世界のただなかでもなお生きていくことができる、その人間救済の神性秘儀を見い出した。</p><p>この人間救済の神性秘儀を獲得したディオニュソスはみずからの神性を誇示しながら、そのはるか遠いアジアはインドから、「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、父ゼウスらオリンポスの神々が佇立するオリンポスの丘へと駆け上がり、そしてオリンポスの丘から宇宙に一気に駆け登って、その宇宙の全体全一の全円に自分の指先をかけようと、また自分のほんのつま先でも引っかけようとしたのだ。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p>  </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>””</p><p>「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している。」</p><p>「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた。」が、近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」である。</p><p>近代「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」である。</p><p>””</p><p>（「性の歴史Ⅰ　知への意志」 ミシェル・フーコー著　渡辺守章訳　新潮社）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>「近代社会は、・・・現実に、かつ直接的に倒錯している」</p><p> </p><p>ディオニュソスはオリンポスの神々の仲間入りは果たしたもののそれら神々が住むオリンポスの丘の隅に席を与えられただけで、なおその中央には父ゼウスが、そしてあの冷徹な理性と流麗堅固の形式身体美に包まれたアポロンが佇立していた。</p><p> </p><p>近代社会は密かにそのアポロンの理性による人間社会の統治理念を淵源としているかのようである。</p><p>しかしアポロンの理性は神の理性であり、神の支配統治を拒否して人間中心主義（ヒューマニズム）を宣言した近代社会がその治世のよすがとする理性は人間の理性であって、その淵源は絶たれている。</p><p> </p><p>人間を超越する神の理性は人間社会の統治理念として正立しても、人間が人間の理性によって人間社会を統治するとすれば、その理念は個々の人間に対して「現実に、かつ直接的に倒錯し」、また逆立する。</p><p> </p><p>不死の神ではなく、生死常ならない人間社会では経世済民についての理念形式が求められ、人間の理性が推し進めた近代資本主義においては「人間の個々の身体は生産機関によって管理された形で組み込まれ、そして個々の人間の生殖と死亡は人口現象として経済的プロセスにはめ込まれる」。</p><p> </p><p>人間を超越するアポロンの神の理性が許容し放置してきたとしても、近代資本主義のこの経世済民理念は、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀を許容することもまた放置することもできない。</p><p> </p><p>近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」によって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀に立ち入り、そこに表象される「雑多な性的変種を生産し固定して」分析し、その分析にもとづいて「生産機関へ個々の人間の身体を管理して組み込み、個々の人間の生殖と死亡を人口統計してそれらを経済的プロセスにはめ込む」。</p><p> </p><p>しかし、音楽や踊りや性は人間の個々の個人幻想でありまた相対者との対幻想であって、いかなる経済社会共同幻想や理念も、またいかなる技術や標準化あるいは統制によっても、それらの内実をその裡に組み込んだりはめ込んだりすることはできない。</p><p> </p><p>近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励んでも、音楽や踊りや性など人間の個々の個人幻想やで相対者との対幻想の内実を掌握することはできない。</p><p>近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励めば励むほど、人間社会は個々の人間の個人幻想、対幻想からの疎外を深め、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀から強く疎外される。</p><p> </p><p>近代社会は、その理性が「現実に、かつ直接的に倒錯している」ことによって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀を受け入れることができず、いまなお、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」にあり、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる、その運命にあるままである。</p><p> </p><p>近代社会はこの経済社会幻想の限界と矛盾の焦慮から「科学」という近代幻想によって人間の心身に「現実に、かつ直接的に」侵入し分析して、その限界と矛盾の消滅を企図しているが、その科学幻想の行く末は、その煩わしい限界と矛盾を生みだしている人間と人間社会そのものの消滅であり終焉である。</p><p> </p><p> </p><p>人間が、そして人間社会がなおある限り、人間は、人間社会はディオニュソスの人間救済の神性秘儀を求めつづける。</p><p> </p><p><p> </p><p> </p><p></p></p><p><br></p><p><br></p><p>ディオニュソスはいまも「「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、アジアの野を、そして世界の野を駆け巡っている。</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「文化」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556926/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556926</id><summary><![CDATA[  ””「文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの形（フォルム）であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形を取ろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみではなく、行動および行動様式をも包含する。」  「日本人にとっての日本文化は、・・・三つの特質を有する・・・。すなわち・・・再帰性と全体性と主体性である。」 「文化の再帰性とは、文化がただ『見られる』ものではなくて、『見る』者として見返してくる、という認識に他ならない」「又、『菊と刀』のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとって不可欠であって、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。」「文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の延長上に、あるいは作品、あるいは行動様式による、その時の、最上の成果へ身を挺することである・・・」  「文化における生命の自覚は、生命の法則に従って、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没という孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このような献身的契機を含まぬ文化の、不毛の完結性が、『近代性』と呼ばれたところのものであった」 「文化主義とは一言を以ってこれを覆えば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。」 ””（「文化防衛論」三島由紀夫著・筑摩書房刊）     　かの大戦の終わりから長い時を経て日本は「近代」への信仰をなお深めてその運命を「近代」に委ねるしかないところへと流れついた。 「近代」は「文化」を冷笑する。「近代」は「文化における生命の自覚」の虚妄を申立て「献身的契機」の不在を宣明して「文化」を冷笑する。 「近代」は「日本文化」と並び立つことができない。「近代」はただ「見られる」ものであり「分別」であり「客観」である。「近代」は『見る』者として見返しまるごとを容認しみずから身を挺する「日本文化」と並び立つことができない。   「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」（貴乃花親方）  「近代」は長きにわたって「日本文化」から再帰性全体性主体性を剥ぎ取りその「文化」をただ客観的に鑑賞するだけの芸術作品に貶めるべく様々に企ててきたがいまだなお果たせない。    「文化」は「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。」「文化」は「蘇生と同時に自己の滅却を要求する。」「文化」は「自己滅却の献身的契機」によって「完結性」を得る。 「近代」は「文化」を「近代化」すれば「文化」の「完結性」を無くしてこの人の世の主座を占めることができると信じている。   「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」（貴乃花親方）  「近代」は長きにわたって「日本文化」からその「完結性」を無くして「日本」の主座を占めようと様々に企ててきたがいまだなお果たせない。   「日本」はすでにその運命を「近代」に委ねている。「日本」は「近代」に「日本文化」から「完結性」を無くして主座を占めるよう委ねるしかない。「日本」は「近代」がその主座を占めて「日本」を「血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離された、何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きもの」にするよう委ねるしかない。  しかしその「近代」はすでにその虚妄と擬もうを顕にしている。  「近代」は「神」に代わりその間然なき理性によって人と人の世を解析整序して救済するとみずから宣明して前へと進み出てきた。 しかし「近代」はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出するに至っている。AI人工知能はどれほどの機能を獲得しても自然物であり人の知能ではない。また万能細胞はいかに万能であっても自然物であり人の身体ではない。人の脳をAI人工知能装置と交換してももはやその生命体は人ではない。万能細胞によって身体を複製してももはやその生命体は人ではない。 　脳をAI人工知能装置と交換して万能細胞により身体を複製すれば人が長く夢想してきた「永遠の生命体」の誕生をみることとなる。しかしその「永遠の生命体」はもはや「血みどろの母胎の生命や生殖行為から生まれでる」人でもなければ「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ促される」人でもない。その「永遠の生命体」が生きる世はもはや人の世ではない。   「神」であれ「近代」であれ救済を求めまた救済されるべきは人であり人の世である。「近代」は救済を求めることもなければ救済される要もない「永遠の生命体」を創り出し人と人の世をその終末へと誘う虚妄と擬もうである。  「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」（貴乃花親方）  「近代」はその虚妄と擬もうによって人と人の世をその終末に誘うことができればその「完結」を迎えることができる。「近代」がその「完結」に至らずまたそれまでその命脈を保つことができれば「日本文化」はなおみずからの「完結性」を誇示して「近代」に勝利することができる。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2017-12-07T08:10:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:59:40+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>””</p><p>「文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの形（フォルム）であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形を取ろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみではなく、行動および行動様式をも包含する。」</p><p> </p><p> 「日本人にとっての日本文化は、・・・三つの特質を有する・・・。すなわち・・・再帰性と全体性と主体性である。」</p><p> 「文化の再帰性とは、文化がただ『見られる』ものではなくて、『見る』者として見返してくる、という認識に他ならない」</p><p>「又、『菊と刀』のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとって不可欠であって、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。」</p><p>「文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の延長上に、あるいは作品、あるいは行動様式による、その時の、最上の成果へ身を挺することである・・・」</p><p> </p><p> 「文化における生命の自覚は、生命の法則に従って、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没という孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このような献身的契機を含まぬ文化の、不毛の完結性が、『近代性』と呼ばれたところのものであった」</p><p> </p><p>「文化主義とは一言を以ってこれを覆えば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。」</p><p> ””</p><p>（「文化防衛論」三島由紀夫著・筑摩書房刊） </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>　かの大戦の終わりから長い時を経て日本は「近代」への信仰をなお深めてその運命を「近代」に委ねるしかないところへと流れついた。</p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>「近代」は「文化」を冷笑する。</p><p>「近代」は「文化における生命の自覚」の虚妄を申立て「献身的契機」の不在を宣明して「文化」を冷笑する。</p><p> </p><p>「近代」は「日本文化」と並び立つことができない。</p><p>「近代」はただ「見られる」ものであり「分別」であり「客観」である。</p><p>「近代」は『見る』者として見返しまるごとを容認しみずから身を挺する「日本文化」と並び立つことができない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」（貴乃花親方）</p><p> </p><p><br></p><p> 「近代」は長きにわたって「日本文化」から再帰性全体性主体性を剥ぎ取りその「文化」をただ客観的に鑑賞するだけの芸術作品に貶めるべく様々に企ててきたがいまだなお果たせない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 「文化」は「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。」</p><p>「文化」は「蘇生と同時に自己の滅却を要求する。」</p><p>「文化」は「自己滅却の献身的契機」によって「完結性」を得る。</p><p> </p><p><br></p><p>「近代」は「文化」を「近代化」すれば「文化」の「完結性」を無くしてこの人の世の主座を占めることができると信じている。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」（貴乃花親方）</p><p> </p><p><br></p><p> 「近代」は長きにわたって「日本文化」からその「完結性」を無くして「日本」の主座を占めようと様々に企ててきたがいまだなお果たせない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p>「日本」はすでにその運命を「近代」に委ねている。</p><p>「日本」は「近代」に「日本文化」から「完結性」を無くして主座を占めるよう委ねるしかない。</p><p>「日本」は「近代」がその主座を占めて「日本」を「血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離された、何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きもの」にするよう委ねるしかない。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>しかしその「近代」はすでにその虚妄と擬もうを顕にしている。</p><p> </p><p> 「近代」は「神」に代わりその間然なき理性によって人と人の世を解析整序して救済するとみずから宣明して前へと進み出てきた。</p><p> しかし「近代」はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出するに至っている。</p><p>AI人工知能はどれほどの機能を獲得しても自然物であり人の知能ではない。</p><p>また万能細胞はいかに万能であっても自然物であり人の身体ではない。</p><p>人の脳をAI人工知能装置と交換してももはやその生命体は人ではない。</p><p>万能細胞によって身体を複製してももはやその生命体は人ではない。</p><p> </p><p>　脳をAI人工知能装置と交換して万能細胞により身体を複製すれば人が長く夢想してきた「永遠の生命体」の誕生をみることとなる。</p><p>しかしその「永遠の生命体」はもはや「血みどろの母胎の生命や生殖行為から生まれでる」人でもなければ「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ促される」人でもない。</p><p>その「永遠の生命体」が生きる世はもはや人の世ではない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「神」であれ「近代」であれ救済を求めまた救済されるべきは人であり人の世である。</p><p>「近代」は救済を求めることもなければ救済される要もない「永遠の生命体」を創り出し人と人の世をその終末へと誘う虚妄と擬もうである。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」（貴乃花親方）</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>「近代」はその虚妄と擬もうによって人と人の世をその終末に誘うことができればその「完結」を迎えることができる。</p><p><p></p></p><p><br></p><p>「近代」がその「完結」に至らずまたそれまでその命脈を保つことができれば「日本文化」はなおみずからの「完結性」を誇示して「近代」に勝利することができる。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「受容」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556911/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556911</id><summary><![CDATA[" 人類の共同性がある段階で＜母系＞制の社会をへたことは、たくさんの古代史の学者にほぼはっきりと認められている。そしてあるばあいこの＜母系＞制は、たんに＜家族＞の体系だけでなく＜母権＞制として共同社会的に存在したことも疑いないとされる。”” ＜母系＞制はただなんらかの理由で、部落内の男・女の＜対なる幻想＞が共同幻想と同致したときにだけ成立するといえるだけである。”” 家族の＜対なる幻想＞が部落の＜共同幻想＞に同致するためには＜対なる幻想＞の意識が＜空間＞的に拡大しなけければならない”” ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の＜対なる幻想＞のうち＜空間＞的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである” ” それでアマテラスがこれをきき驚いて申すには、「わたしの兄弟のミコトが天に上ってくる理由は、きっと良い心からではあるまい。わたしの国を奪おうとしてやってくるにちがいない」というと、髪の毛を解いて、ミズラにまき、左右のミズラにもカツラにも、左右の手にも、みな勾玉のたくさんついた珠玉をまいて、背には矢が千本入る矢の靫を負い、胸には矢が五百本入る靫をつけ、臀には高い音を出す鞆を佩き、弓を振り立てて庭につっ佇ち、大地を蹴ちらしておたけびをあげて待ちかまえ、スサノオに「なんのために天に上ってきたのだ」と問うた。　スサノウノミコトは答えていうには「わたしには邪心はありません。ただ父がわたしの哭いている理由をきかれたので、わたしは妣の国にゆきたいとおもって哭いているのですと申しますと、父がお前はこの国に住んではまかりならぬと追放されたのです。それだから妣の国へゆこうとおもう次第を知らせに上がってきたので、異心はありません」とのべた。”（吉本隆明著「改訂新版共同幻想論　母制論」　角川ソフィア文庫）  姉アマテラスは生誕の祝祭と死の供儀を司る＜母権＞制共同国幻想を支配する。弟スサノウは、姉アマテラスが支配する＜母権＞制共同国幻想の空間拡大と守護の命を拝し、姉アマテラスと妣が鎮座する＜母権＞家族から離たれ、その共同国幻想の域際に立つ。その域外にさんざめく異界異族の共同国幻想は、姉アマテラスの支配する＜母権＞制共同国幻想をその崩壊を企らみさまざまに脅やかす。その守護にあたる弟スサノウの心身は疲弊し、一人哭いて、姉アマテラスと妣が鎮座する＜母権＞家族への回帰を願う。 姉アマテラスと妣は＜母権＞制共同国幻想の空間拡大と守護のためその＜母権＞家族から離たった弟スサノウの回帰を受け入れることはできない。姉アマテラスと妣は＜母権＞制共同国幻想の空間拡大と守護の命に背く弟スサノウをもはやその＜母権＞家族に受容することはない。   「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」（希望の党代表小池百合子） 共同国幻想の政策、理念は言葉によって語られる。生誕の祝祭と死の供儀は祈りと音楽に包まれる。生誕の祝祭と死の供儀は言葉によって記述することはできない。 共同国幻想の政策、理念の言葉は抽象を余儀なくされてついには唯名に陥いる。唯名に陥った共同国幻想の政策、理念の言葉は、沈黙によって形成される自己幻想、対幻想を遠く疎外する。この遠く疎外された自己幻想、対幻想を慰謝し救済しうるのは祈りと音楽に包まれる生誕の祝祭と死の供儀である。生誕の祝祭と死の供儀を司る＜母権＞制共同国幻想は、遠く疎外された自己幻想、対幻想の慰謝、救済幻想として、この世にいつも静かに沈潜してきた。  「母子の権利こそ、実は女権の究極であり、女性独自のものである」（高群逸枝『女性の歴史』講談社文庫版上、一九七二年）「女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにする男は居域から追われる。古く母権制につながる新しい母子の権利に基づく生活が、わが住居にやってきたのだ。七〇年代、男権の表れとしての家庭の解体が始まっていたが、一組の男女が暮らす居場所の新しい名前はなかった」（最首悟『大衆の玄像』青土社発行「現代思想」平成２４年７月号）  男達が参画する共同国幻想の政策、理念の言葉はとうに唯名に陥り、その唯名の政策、理念の蕩尽によって、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした。その共同国幻想に参画した男達は、瞋恚の＜女権＞家族から、その居域から追放される。その男達にはもやは居場所はない。 居場所をなくしたその男達はついには＜女権＞家族への回帰を願うしかない。 ＜母権＞制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達の＜女権＞家族への回帰を受け入れることはできない。＜母権＞制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達をもはやその＜女権＞家族に受容することはない。   「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2017-10-07T08:15:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:56:49+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>" 人類の共同性がある段階で＜母系＞制の社会をへたことは、たくさんの古代史の学者にほぼはっきりと認められている。そしてあるばあいこの＜母系＞制は、たんに＜家族＞の体系だけでなく＜母権＞制として共同社会的に存在したことも疑いないとされる。”</p><p>” ＜母系＞制はただなんらかの理由で、部落内の男・女の＜対なる幻想＞が共同幻想と同致したときにだけ成立するといえるだけである。”</p><p>” 家族の＜対なる幻想＞が部落の＜共同幻想＞に同致するためには＜対なる幻想＞の意識が＜空間＞的に拡大しなけければならない”</p><p>” ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の＜対なる幻想＞のうち＜空間＞的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである”</p><p> </p><p>” それでアマテラスがこれをきき驚いて申すには、「わたしの兄弟のミコトが天に上ってくる理由は、きっと良い心からではあるまい。わたしの国を奪おうとしてやってくるにちがいない」というと、髪の毛を解いて、ミズラにまき、左右のミズラにもカツラにも、左右の手にも、みな勾玉のたくさんついた珠玉をまいて、背には矢が千本入る矢の靫を負い、胸には矢が五百本入る靫をつけ、臀には高い音を出す鞆を佩き、弓を振り立てて庭につっ佇ち、大地を蹴ちらしておたけびをあげて待ちかまえ、スサノオに「なんのために天に上ってきたのだ」と問うた。</p><p>　スサノウノミコトは答えていうには「わたしには邪心はありません。ただ父がわたしの哭いている理由をきかれたので、わたしは妣の国にゆきたいとおもって哭いているのですと申しますと、父がお前はこの国に住んではまかりならぬと追放されたのです。それだから妣の国へゆこうとおもう次第を知らせに上がってきたので、異心はありません」とのべた。”</p><p>（吉本隆明著「改訂新版共同幻想論　母制論」　角川ソフィア文庫）</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>姉アマテラスは生誕の祝祭と死の供儀を司る＜母権＞制共同国幻想を支配する。</p><p>弟スサノウは、姉アマテラスが支配する＜母権＞制共同国幻想の空間拡大と守護の命を拝し、姉アマテラスと妣が鎮座する＜母権＞家族から離たれ、その共同国幻想の域際に立つ。</p><p>その域外にさんざめく異界異族の共同国幻想は、姉アマテラスの支配する＜母権＞制共同国幻想をその崩壊を企らみさまざまに脅やかす。</p><p>その守護にあたる弟スサノウの心身は疲弊し、一人哭いて、姉アマテラスと妣が鎮座する＜母権＞家族への回帰を願う。</p><p> </p><p>姉アマテラスと妣は＜母権＞制共同国幻想の空間拡大と守護のためその＜母権＞家族から離たった弟スサノウの回帰を受け入れることはできない。</p><p>姉アマテラスと妣は＜母権＞制共同国幻想の空間拡大と守護の命に背く弟スサノウをもはやその＜母権＞家族に受容することはない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」（希望の党代表小池百合子）</p><p> </p><p><br></p><p>共同国幻想の政策、理念は言葉によって語られる。</p><p>生誕の祝祭と死の供儀は祈りと音楽に包まれる。</p><p>生誕の祝祭と死の供儀は言葉によって記述することはできない。</p><p> </p><p>共同国幻想の政策、理念の言葉は抽象を余儀なくされてついには唯名に陥いる。</p><p>唯名に陥った共同国幻想の政策、理念の言葉は、沈黙によって形成される自己幻想、対幻想を遠く疎外する。</p><p>この遠く疎外された自己幻想、対幻想を慰謝し救済しうるのは祈りと音楽に包まれる生誕の祝祭と死の供儀である。</p><p>生誕の祝祭と死の供儀を司る＜母権＞制共同国幻想は、遠く疎外された自己幻想、対幻想の慰謝、救済幻想として、この世にいつも静かに沈潜してきた。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>「母子の権利こそ、実は女権の究極であり、女性独自のものである」（高群逸枝『女性の歴史』講談社文庫版上、一九七二年）</p><p><br></p><p>「女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにする男は居域から追われる。古く母権制につながる新しい母子の権利に基づく生活が、わが住居にやってきたのだ。七〇年代、男権の表れとしての家庭の解体が始まっていたが、一組の男女が暮らす居場所の新しい名前はなかった」（最首悟『大衆の玄像』青土社発行「現代思想」平成２４年７月号）</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>男達が参画する共同国幻想の政策、理念の言葉はとうに唯名に陥り、その唯名の政策、理念の蕩尽によって、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした。</p><p>その共同国幻想に参画した男達は、瞋恚の＜女権＞家族から、その居域から追放される。</p><p>その男達にはもやは居場所はない。</p><p> </p><p>居場所をなくしたその男達はついには＜女権＞家族への回帰を願うしかない。</p><p> </p><p>＜母権＞制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達の＜女権＞家族への回帰を受け入れることはできない。</p><p>＜母権＞制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達をもはやその＜女権＞家族に受容することはない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「祖国」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556901/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556901</id><summary><![CDATA[ ””This land is your land,This land is my land,From California to the New York Island,From the redwood forest,To the Gulf stream waters,This land was made for you and me.・・・As I was walkin’I saw a sign thereAnd that sign said no trespassin’But on the other sideIt didn’t say nothin!Now that side was made for you and me!In the squares of the cityIn the shadow of the steepleNear the relief officeI see my peopleAnd some are grumblin’And some are wonderin’If this land’s still made for you and me.・・・「This Land Is Your Land」（わが祖国）（Words and Music by Woody Guthrie）””  あの頃、かの国のかの詩人は貧困と差別の大地放浪にあって、叙情を静かに抑えながらなお希望の「祖国」を叙景した。叙情に絡みとられた「祖国」はその人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となる。叙情を抑えながら叙景される「祖国」は人々の共有の幻影となる。  「祖国」は人々がその「国家」の道義を信じてその「国家」のもとに個々の心身を糾合する姿として幻影される。 「国家」は科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想によってその道義を揺さぶられ不義に陥る。「祖国」はいまある「国家」の不義によって疲弊した人々が抱く懐かしくも儚く遠ざかっていく共同幻想として幻影される。 あの頃から時はめぐってかの国は「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。  いまかの国の新指導者はその「国家」の道義を糺し疲弊した人々の懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で現れ出た。 いま、かの国の新指導者は大統領府と閣僚と最高裁判所に人事を配し大統領令を繰り出して「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想を「国家」に同致して「国家」の道義を糺し、懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で船出した。    ””「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」　（「祖国喪失-壱-」寺山修司）”” あの頃、この国のかの詩人は虚栄と虚妄の都市に身を潜め、叙情に絡みとられた「故郷」を遥かに夢みながら、港の霧に霞みゆく「祖国」喪失を叙景した。 あの頃から時はめぐってこの国もまた「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。 いまこの国では「祖国」の礎の「国家」道義の体現者たる「天皇」幻想はその像すら結ばない。 もう人々が叙情を抑えながら叙景できる「祖国」は失われた。もう「祖国」は叙情に絡みとられた人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となった。 もうこの国には「国家」の道義を糾すすべもなく捨て身して惹き戻すべきほどの「祖国」も喪われた。 この国はこの「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想の、いまはもうその虚構、虚妄が顕になった「近代」という幻想をなお頑なに信仰してその運命を委ねていくほかないところにまでながれついた。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2017-02-05T07:52:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:54:14+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p> </p><p>””</p><p>This land is your land,</p><p>This land is my land,</p><p>From California to the New York Island,</p><p>From the redwood forest,</p><p>To the Gulf stream waters,</p><p>This land was made for you and me.</p><p>・・・</p><p>As I was walkin’</p><p>I saw a sign there</p><p>And that sign said no trespassin’</p><p>But on the other side</p><p>It didn’t say nothin!</p><p>Now that side was made for you and me!</p><p>In the squares of the city</p><p>In the shadow of the steeple</p><p>Near the relief office</p><p>I see my people</p><p>And some are grumblin’</p><p>And some are wonderin’</p><p>If this land’s still made for you and me.</p><p>・・・</p><p>「This Land Is Your Land」（わが祖国）</p><p>（Words and Music by Woody Guthrie）</p><p>”” </p><p> </p><p><br></p><p>あの頃、かの国のかの詩人は貧困と差別の大地放浪にあって、叙情を静かに抑えながらなお希望の「祖国」を叙景した。</p><p><br></p><p>叙情に絡みとられた「祖国」はその人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となる。</p><p>叙情を抑えながら叙景される「祖国」は人々の共有の幻影となる。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「祖国」は人々がその「国家」の道義を信じてその「国家」のもとに個々の心身を糾合する姿として幻影される。 </p><p>「国家」は科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想によってその道義を揺さぶられ不義に陥る。</p><p>「祖国」はいまある「国家」の不義によって疲弊した人々が抱く懐かしくも儚く遠ざかっていく共同幻想として幻影される。</p><p> </p><p><br></p><p>あの頃から時はめぐってかの国は「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。</p><p> </p><p> いまかの国の新指導者はその「国家」の道義を糺し疲弊した人々の懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で現れ出た。</p><p> いま、かの国の新指導者は大統領府と閣僚と最高裁判所に人事を配し大統領令を繰り出して「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想を「国家」に同致して「国家」の道義を糺し、懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で船出した。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>””<br></p><p>「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」</p><p>　（「祖国喪失-壱-」寺山修司）</p><p>””</p><p> </p><p><br></p><p>あの頃、この国のかの詩人は虚栄と虚妄の都市に身を潜め、叙情に絡みとられた「故郷」を遥かに夢みながら、港の霧に霞みゆく「祖国」喪失を叙景した。</p><p> </p><p>あの頃から時はめぐってこの国もまた「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。</p><p> </p><p>いまこの国では「祖国」の礎の「国家」道義の体現者たる「天皇」幻想はその像すら結ばない。</p><p> </p><p>もう人々が叙情を抑えながら叙景できる「祖国」は失われた。</p><p>もう「祖国」は叙情に絡みとられた人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となった。</p><p> </p><p>もうこの国には「国家」の道義を糾すすべもなく捨て身して惹き戻すべきほどの「祖国」も喪われた。</p><p> </p><p><p></p></p><p><br></p><p>この国はこの「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想の、いまはもうその虚構、虚妄が顕になった「近代」という幻想をなお頑なに信仰してその運命を委ねていくほかないところにまでながれついた。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「道義」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556891/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556891</id><summary><![CDATA[    ””　私は本来国体論には正当も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって、むしろ国体思想イコール変革の思想だという考え方をするのである。それによって平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇制信仰自体が永遠の現実否定なのである。明治政府による天皇制は、むしろ絶対的否定的国体論（攘夷）から天皇を簒奪したものであった。明治憲法的天皇制において、天皇機関説は自明の結論であった。」「しかし、明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八絋一宇の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、（現代アメリカの「自由と民主主義」」の使命感を見よ）これが擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より「正統的な」道義によって「顚覆」され「紊乱」される危険を蔵している。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。二・二六は、このような意味で、当為の革命、すなわち道義的革命の性格を担っていた。」「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。すなわち日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。二・二六はその典型的表現である。””（ちくま文庫「文化防衛論」『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」三島由紀夫著）    「 近代」は神から自由となったとしても「近代」というなおの「擬制」であり、その「擬制」は「道義」から免れることはできない。 近代国家がいかなる政体を採りいかなる政治理念を掲げてもそれら「擬制」は「国家道義」から免れることはできない。「独裁あるいは民主」政体のいずれの「戦争あるいは平和」理念のいずれの「擬制」もまた「国家道義」から免れることはできない。   明治憲法は近代国家の政体と理念を擬制しながら天皇を万世一系統治権総覧の元首とする「国家道義」を擬制した。  磯部一等主計はみずからの内なる道義と国家道義の合一を信じて蹶起した。 磯部一等主計は蹶起したあと「国家道義の体現者」天皇の「大御心」を弛まずに待った。 磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。    「いかなる政体も理念も擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より正統的な道義によって顚覆され紊乱される危険を蔵し、道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがありつねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。」 「あらゆる政体も理念も否定形においてはじめて純粋性を得るものであり、その純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。」 「日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。」   磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。     いまかの国では「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」が使われれば使われるほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。いまかの国では「ポリティカルコレクトネス」によってその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制の正統性」を維持しようとすればするほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。 「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。」「純粋性のダイナミックスとはつねに永久革命の形態をとる。」  かの国の次代指導者はその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」の否定形においてその「擬制の純粋性」を獲得しようとしている永久の道義的革命者であるのかかの国の次代指導者もまた「道義的革命の限定」を負うものとしていずれ敗北していくのか     現憲法は「自由と民主主義」政体と理念の擬制のもと天皇を日本国及び日本国民の統合の象徴とする「国家道義」をなお擬制した。   いま象徴天皇は「国家道義の体現者」としてのあり方振る舞い方について国家の主権者日本国民に問いかけその理解を待っている。    いまこの国の「自由の民主主義」政体と理念の擬制の運命は象徴天皇が問いかけ理解を求める国家の主権者日本国民の「国家道義」の認識と意思にこそ委ねられている。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-12-13T08:25:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:51:29+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>  ””　私は本来国体論には正当も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって、むしろ国体思想イコール変革の思想だという考え方をするのである。それによって平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇制信仰自体が永遠の現実否定なのである。明治政府による天皇制は、むしろ絶対的否定的国体論（攘夷）から天皇を簒奪したものであった。明治憲法的天皇制において、天皇機関説は自明の結論であった。」</p><p>「しかし、明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八絋一宇の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、（現代アメリカの「自由と民主主義」」の使命感を見よ）これが擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より「正統的な」道義によって「顚覆」され「紊乱」される危険を蔵している。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。二・二六は、このような意味で、当為の革命、すなわち道義的革命の性格を担っていた。」</p><p>「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。すなわち日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。二・二六はその典型的表現である。””</p><p>（ちくま文庫「文化防衛論」『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」三島由紀夫著）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>「 近代」は神から自由となったとしても「近代」というなおの「擬制」であり、その「擬制」は「道義」から免れることはできない。</p><p> </p><p>近代国家がいかなる政体を採りいかなる政治理念を掲げてもそれら「擬制」は「国家道義」から免れることはできない。</p><p>「独裁あるいは民主」政体のいずれの「戦争あるいは平和」理念のいずれの「擬制」もまた「国家道義」から免れることはできない。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>明治憲法は近代国家の政体と理念を擬制しながら天皇を万世一系統治権総覧の元首とする「国家道義」を擬制した。</p><p> </p><p> </p><p>磯部一等主計はみずからの内なる道義と国家道義の合一を信じて蹶起した。</p><p> </p><p>磯部一等主計は蹶起したあと「国家道義の体現者」天皇の「大御心」を弛まずに待った。</p><p> </p><p>磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 「いかなる政体も理念も擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より正統的な道義によって顚覆され紊乱される危険を蔵し、道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがありつねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。」</p><p> 「あらゆる政体も理念も否定形においてはじめて純粋性を得るものであり、その純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。」</p><p> 「日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。」</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p> いまかの国では「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」が使われれば使われるほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。</p><p>いまかの国では「ポリティカルコレクトネス」によってその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制の正統性」を維持しようとすればするほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。</p><p> </p><p>「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。」</p><p>「純粋性のダイナミックスとはつねに永久革命の形態をとる。」</p><p> </p><p><br></p><p> かの国の次代指導者はその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」の否定形においてその「擬制の純粋性」を獲得しようとしている永久の道義的革命者であるのか</p><p>かの国の次代指導者もまた「道義的革命の限定」を負うものとしていずれ敗北していくのか</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p> 現憲法は「自由と民主主義」政体と理念の擬制のもと天皇を日本国及び日本国民の統合の象徴とする「国家道義」をなお擬制した。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> いま象徴天皇は「国家道義の体現者」としてのあり方振る舞い方について国家の主権者日本国民に問いかけその理解を待っている。</p><p> </p><p> </p><p><p> </p><p></p></p><p>&nbsp;</p><p>いまこの国の「自由の民主主義」政体と理念の擬制の運命は象徴天皇が問いかけ理解を求める国家の主権者日本国民の「国家道義」の認識と意思にこそ委ねられている。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「モノリス」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556878/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556878</id><summary><![CDATA[  「『魁種族』が地球に放り込んだ『モノリス』に触発された『ヒトザル』は道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目するヒトザルを殺戮し、その歓喜のあまり放り上げた骨が最新衛星に一変する」「月に移住した人類はクレーターで『モノリス』を発掘し、その調査のため、船長ボーマンら５名の乗組員と人工知能HALを乗せた宇宙船ディスカバリー号は木星探査に向かう」「飛行の途上人工知能HALの反乱によって４人の乗組員が殺害されるが、人工知能HALの思考部を停止して亡き者とした船長ボーマンは一人なお木星に向かう」「その木星の衛星軌道上に巨大な『モノリス』、『ビッグブラザー』が出現しスターゲイトが大きな口を開け放つ」「船長ボーマンはそのスターゲイトに吸い込まれて宇宙の彼方へ転送され、そこで肉体を脱した精神のみの生命体『スターチャイルド』に生まれ変わる」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　””（「２００１年宇宙の旅」ー２００１：A  Space OdysseyーウイキペディアWikipediaからの抜粋）    「ヒトザル」は「道具を創って獣を倒して」自然と動物から疎外された。「ヒトザル」は「武器を創って反目するヒトザルを殺戮して」みずからの生と死から疎外された。「ヒトザル」は「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律から疎外された。   人類となった「ヒトザル」はまだ月に移住していない。 人類はいまもこの地球で「道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目する人類を殺戮している。」 人類はいまもこの地球で「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままである。  人類はこの「創造と破壊」の疎外から免れるためAI人工知能を創り始めている。人類はこの「生と死」の疎外から免れるため万能細胞を創り始めている。 AI人工知能と万能細胞の「創造」もなお人類を疎外する。AI人工知能と万能細胞の「創造」によって人類は「肉体を脱した精神のみの生命体」となり「肉体と精神をもった生命体」である人類から自己疎外される。「肉体を脱した精神のみの生命体」はまた「肉体と精神をもった生命体」を息づかせる「地球」からも疎外される。  人類はAI人工知能と万能細胞の「創造」によりみずから自己疎外されまた地球からも疎外されることを感知して怖れはじめている。  人類はこの自己疎外と地球からの疎外を怖れて地球から脱出すべく火星へ移住するためのロケット準備を完了しつつある。 それでも火星に移住するのは「肉体を脱した精神のみの生命体」でなく、「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままの「肉体と精神をもった生命体」である。  人類はこれら疎外から逃れるためにはもはや「ヒトザル」が触発されてそれを齎した「モノリス」の秘儀を探索するしかない。 「魁種族」が放り込んだ「モノリス」はこの地球の地層深く埋没しているのかはたまた月あるいは火星のクレーターに潜むのか。 「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込む気配は微かながら漂っている。「魁種族」が地球にやってくる気配、月か火星の訪問者となる気配も微かながら漂っている。 「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込むか地球か月か火星の訪問者とならなければ人類は「モノリス」の秘儀探索の旅に出るしかない。 その人類の探索衛星の軌道上には「魁種族」が設えた「ビッグブラザー」「モノリス」のスターゲイトが大きな口を開けて待ち構えている。 人類がそのスターゲイトに吸い込まれると宇宙の彼方に転送される。そして人類はみずから希みながらも怖気付いて生まれ変わることができなかった「肉体を脱した精神のみの生命体」、「スターチャイルド」に生まれ変わることができる。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-11-24T08:20:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:48:56+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>「『魁種族』が地球に放り込んだ『モノリス』に触発された『ヒトザル』は道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目するヒトザルを殺戮し、その歓喜のあまり放り上げた骨が最新衛星に一変する」</p><p>「月に移住した人類はクレーターで『モノリス』を発掘し、その調査のため、船長ボーマンら５名の乗組員と人工知能HALを乗せた宇宙船ディスカバリー号は木星探査に向かう」</p><p>「飛行の途上人工知能HALの反乱によって４人の乗組員が殺害されるが、人工知能HALの思考部を停止して亡き者とした船長ボーマンは一人なお木星に向かう」</p><p>「その木星の衛星軌道上に巨大な『モノリス』、『ビッグブラザー』が出現しスターゲイトが大きな口を開け放つ」</p><p>「船長ボーマンはそのスターゲイトに吸い込まれて宇宙の彼方へ転送され、そこで肉体を脱した精神のみの生命体『スターチャイルド』に生まれ変わる」</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　””</p><p>（「２００１年宇宙の旅」ー２００１：A  Space OdysseyーウイキペディアWikipediaからの抜粋）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p> 「ヒトザル」は「道具を創って獣を倒して」自然と動物から疎外された。</p><p>「ヒトザル」は「武器を創って反目するヒトザルを殺戮して」みずからの生と死から疎外された。</p><p>「ヒトザル」は「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律から疎外された。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 人類となった「ヒトザル」はまだ月に移住していない。</p><p> 人類はいまもこの地球で「道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目する人類を殺戮している。」</p><p> 人類はいまもこの地球で「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままである。</p><p> </p><p> </p><p>人類はこの「創造と破壊」の疎外から免れるためAI人工知能を創り始めている。</p><p>人類はこの「生と死」の疎外から免れるため万能細胞を創り始めている。</p><p> </p><p><br></p><p>AI人工知能と万能細胞の「創造」もなお人類を疎外する。</p><p>AI人工知能と万能細胞の「創造」によって人類は「肉体を脱した精神のみの生命体」となり「肉体と精神をもった生命体」である人類から自己疎外される。</p><p>「肉体を脱した精神のみの生命体」はまた「肉体と精神をもった生命体」を息づかせる「地球」からも疎外される。</p><p> </p><p> </p><p>人類はAI人工知能と万能細胞の「創造」によりみずから自己疎外されまた地球からも疎外されることを感知して怖れはじめている。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>人類はこの自己疎外と地球からの疎外を怖れて地球から脱出すべく火星へ移住するためのロケット準備を完了しつつある。</p><p> </p><p>それでも火星に移住するのは「肉体を脱した精神のみの生命体」でなく、「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままの「肉体と精神をもった生命体」である。</p><p> </p><p> </p><p>人類はこれら疎外から逃れるためにはもはや「ヒトザル」が触発されてそれを齎した「モノリス」の秘儀を探索するしかない。</p><p> </p><p>「魁種族」が放り込んだ「モノリス」はこの地球の地層深く埋没しているのかはたまた月あるいは火星のクレーターに潜むのか。</p><p> </p><p><br></p><p>「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込む気配は微かながら漂っている。</p><p>「魁種族」が地球にやってくる気配、月か火星の訪問者となる気配も微かながら漂っている。</p><p> </p><p>「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込むか地球か月か火星の訪問者とならなければ人類は「モノリス」の秘儀探索の旅に出るしかない。</p><p> </p><p>その人類の探索衛星の軌道上には「魁種族」が設えた「ビッグブラザー」「モノリス」のスターゲイトが大きな口を開けて待ち構えている。</p><p> </p><p><br></p><p>人類がそのスターゲイトに吸い込まれると宇宙の彼方に転送される。</p><p><br></p><p>そして人類はみずから希みながらも怖気付いて生まれ変わることができなかった「肉体を脱した精神のみの生命体」、「スターチャイルド」に生まれ変わることができる。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「堕落」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556862/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556862</id><summary><![CDATA[””　人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であリ、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが、他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。　””（「堕落論」坂口安吾著　銀座出版社発行）  共同幻想に囚われた人間は永遠に堕ちぬくことはできない。個人の始めと終わりの生と死も共同幻想に囲い込まれた世界で人間は堕ちぬくことはできない。堕ちぬくことができない人間は共同幻想に浮かぶ他人の処女を刺殺し武士道をあみだし天皇を担ぎ出して共同幻想化する。  「人間は生き、堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。」 人間は正しく堕ちきることができる。 他人の処女、武士道、天皇はあまねく共同幻想でありその共同幻想を抱く自分もまた共同幻想である。共同幻想を抱く自分は自分自身の逆立像であり共同幻想に浮かぶ虚像であって自分自身ではない。人間は自分を共同幻想から解き放ち自分自身として堕ちていけば正しく堕ちきることができる。正しく堕ちぬくことができれば人間は自分自身を発見することができるし救われる。   ””　『お前の眼の中にあたしは軽蔑を読みとりたいのよ、軽蔑と、怖気を』これが母の、母としての、又、女としての最終的な願望であった。人を堕落に誘うとは、真理に目ざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信ずる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に『神』でなければならないのである。””（中央公論社発行「小説読本ー小説とは何かー（ジョルジュ・バタイユ）」三島由紀夫著）      人間は「堕落」によって真理に目覚め救われる。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-11-20T07:55:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:45:44+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p>””　人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。</p><p>戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。</p><p>だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であリ、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。</p><p>だが、他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。　””</p><p>（「堕落論」坂口安吾著　銀座出版社発行）</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>共同幻想に囚われた人間は永遠に堕ちぬくことはできない。</p><p><br></p><p>個人の始めと終わりの生と死も共同幻想に囲い込まれた世界で人間は堕ちぬくことはできない。</p><p>堕ちぬくことができない人間は共同幻想に浮かぶ他人の処女を刺殺し武士道をあみだし天皇を担ぎ出して共同幻想化する。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「人間は生き、堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。」</p><p> </p><p>人間は正しく堕ちきることができる。</p><p> </p><p><br></p><p>他人の処女、武士道、天皇はあまねく共同幻想でありその共同幻想を抱く自分もまた共同幻想である。</p><p>共同幻想を抱く自分は自分自身の逆立像であり共同幻想に浮かぶ虚像であって自分自身ではない。</p><p>人間は自分を共同幻想から解き放ち自分自身として堕ちていけば正しく堕ちきることができる。</p><p>正しく堕ちぬくことができれば人間は自分自身を発見することができるし救われる。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>””　『お前の眼の中にあたしは軽蔑を読みとりたいのよ、軽蔑と、怖気を』</p><p><br></p><p>これが母の、母としての、又、女としての最終的な願望であった。人を堕落に誘うとは、真理に目ざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信ずる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に『神』でなければならないのである。””</p><p>（中央公論社発行「小説読本ー小説とは何かー（ジョルジュ・バタイユ）」三島由紀夫著）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><p> </p><p> </p><p></p></p><p><br></p><p><br></p><p>人間は「堕落」によって真理に目覚め救われる。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「草の葉」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556854/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556854</id><summary><![CDATA[  ”　申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられ、生まれ故郷の魚の形をしたパウマノクを出発して、多くの国々を遍歴したあと――人の往来はげしい舗装道路を愛するものとして、わたしの都市であるマナハッタのなか、さてはまた南部地方の無樹の大草原のうえの住民として、あるいは幕営したり、背嚢（はいのう）や銃をになう兵士、あるいはカリフォルニアの抗夫として、あるいはその食うものは獣肉、飲むものは泉からじかというダコタの森林中のわたしの住居に自然のままのものとして、あるいはどこか遠い人里離れたところへ黙考したり沈思するために隠棲（いんせい）し、群衆のどよめきから遠のいて合間合間を恍惚（こうこつ）と幸福に過ごし、生き生きした気前のいい呉れ手、滔々（とうとう）と流れるミズリー川を知り、強大なナイアガラを知り、平原に草を食う水牛や多毛でガッシリした胸肉の牡牛（おうし）の群れを知り、わたしの驚異である大地、岩石、慣れ知った第五の月の花々、星々、雨、雪を知り、物まね鳥の鳴く音と山鷹（やまたか）の飛び翔（か）けるのを観察し、明け方には比類まれなもの、湿地種のシーダー樹林からの鶫（つぐみ）の鳴くのを聴き、《西部》にあって歌いながら、ただひとりでわたしは《新世界》へと旅立つ。” （「草の葉ーパウマノクを出発してー」ウォルト・ホイットマン/富田砕花訳　グーテンベルク２１発行）  この壮大な叙景詩魂はホイットマンの身体に深く宿る。   「世界はほかならぬ身体という生地で仕立てられている」（「目と精神」メルロ・ポンティ）  　申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられた、ホイットマンの力漲る身体は、都市マンハッタン、南部の大草原を、カリフォルニア、ダコタ、ミズーリを彷徨い、それら行く先々の自然と大地とさまざまに交合して、その身体のうちに、荒々しくも瑞々しい幾重もの生地で織りなす「世界」を仕立て上げた。 　このホイットマンの「詩魂」はかの大陸の人々の心身を激しく揺さぶり、数知れない人々が故郷を出発して都市マンハッタン、南部の大草原を、カリフォルニア、ダコタ、ミズーリを彷徨い、それら行く先々の自然と大地とさまざまに交合して、その身体のうちに、荒々しくも瑞々しい幾重もの生地で織りなす「世界」を仕立て上げた。    　いま「都市マンハッタン」ウオール街はヘッジとレバレッジを効かせた金融工学の覇者たちに占拠されている。　いま「カリフォルニア」シリコンヴァレーはゼロワンアルゴリズムのサイバー空間の覇者たちに占拠されている。　　彼ら覇者たちは金融工学とサイバー空間という「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」を築き上げ、「身体という生地によって仕立てられた世界」からは截然と疎外された。 　彼ら覇者たちは「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」で繰り広げられる宴あとの空虚に苛まれて「身体という生地によって仕立てられた世界」からの疎外を日毎夜毎深めている。 　彼ら覇者たちはもはや「身体という生地によって仕立てられた世界」には戻れないことを知っている。 　彼ら覇者たちは「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の行く末を怖れ、戸惑い始めている。　　「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の果てにあるAI人工知能による世界支配を怖れ、戸惑い始めている。 　彼ら覇者たちは「身体という生地によって仕立てられた世界」を忘却の彼方へと押しやるため、その疎外をなきものとするためにAI人工知能による世界支配を容認すべきか戸惑っている。　AI人工知能による世界支配によって「身体という生地によって仕立てられた世界」が壊滅するまえにこの地球を捨て、火星に向けた方舟を漕ぎ出すべきか戸惑っている。  　さきに次代指導者に選出された「都市マンハッタン」の輝く高層ビル屋上階の人もまたいずれ「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」と「身体という生地によって仕立てられた世界」双方からの挟撃にあい、戸惑い迷う。  　それでも「身体という生地によって仕立てられた世界」に生きる人々は戸惑うことはない、迷うこともない。　　「身体という生地によって仕立てられた世界」の人々の身体は「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の廃墟灰塵のなかからなお自然と大地が悠然と蘇りまた立ち昇ることを知っている。   　身体という生地は戸惑うことも迷うこともない。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-11-04T08:05:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:42:32+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>”　申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられ、</p><p>生まれ故郷の魚の形をしたパウマノクを出発して、</p><p>多くの国々を遍歴したあと――人の往来はげしい舗装道路を愛するものとして、</p><p>わたしの都市であるマナハッタのなか、さてはまた南部地方の無樹の大草原のうえの住民として、</p><p>あるいは幕営したり、背嚢（はいのう）や銃をになう兵士、あるいはカリフォルニアの抗夫として、</p><p>あるいはその食うものは獣肉、飲むものは泉からじかというダコタの森林中のわたしの住居に自然のままのものとして、</p><p>あるいはどこか遠い人里離れたところへ黙考したり沈思するために隠棲（いんせい）し、</p><p>群衆のどよめきから遠のいて合間合間を恍惚（こうこつ）と幸福に過ごし、</p><p>生き生きした気前のいい呉れ手、滔々（とうとう）と流れるミズリー川を知り、強大なナイアガラを知り、</p><p>平原に草を食う水牛や多毛でガッシリした胸肉の牡牛（おうし）の群れを知り、</p><p>わたしの驚異である大地、岩石、慣れ知った第五の月の花々、星々、雨、雪を知り、</p><p>物まね鳥の鳴く音と山鷹（やまたか）の飛び翔（か）けるのを観察し、</p><p>明け方には比類まれなもの、湿地種のシーダー樹林からの鶫（つぐみ）の鳴くのを聴き、</p><p>《西部》にあって歌いながら、ただひとりでわたしは《新世界》へと旅立つ。”</p><p> （「草の葉ーパウマノクを出発してー」ウォルト・ホイットマン/富田砕花訳　グーテンベルク２１発行）</p><p> </p><p><br></p><p> この壮大な叙景詩魂はホイットマンの身体に深く宿る。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 「世界はほかならぬ身体という生地で仕立てられている」（「目と精神」メルロ・ポンティ）</p><p> </p><p> </p><p>　申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられた、ホイットマンの力漲る身体は、都市マンハッタン、南部の大草原を、カリフォルニア、ダコタ、ミズーリを彷徨い、それら行く先々の自然と大地とさまざまに交合して、その身体のうちに、荒々しくも瑞々しい幾重もの生地で織りなす「世界」を仕立て上げた。</p><p> </p><p>　このホイットマンの「詩魂」はかの大陸の人々の心身を激しく揺さぶり、数知れない人々が故郷を出発して都市マンハッタン、南部の大草原を、カリフォルニア、ダコタ、ミズーリを彷徨い、それら行く先々の自然と大地とさまざまに交合して、その身体のうちに、荒々しくも瑞々しい幾重もの生地で織りなす「世界」を仕立て上げた。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p> 　いま「都市マンハッタン」ウオール街はヘッジとレバレッジを効かせた金融工学の覇者たちに占拠されている。</p><p>　いま「カリフォルニア」シリコンヴァレーはゼロワンアルゴリズムのサイバー空間の覇者たちに占拠されている。</p><p>　</p><p>　彼ら覇者たちは金融工学とサイバー空間という「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」を築き上げ、「身体という生地によって仕立てられた世界」からは截然と疎外された。</p><p> </p><p><br></p><p>　彼ら覇者たちは「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」で繰り広げられる宴あとの空虚に苛まれて「身体という生地によって仕立てられた世界」からの疎外を日毎夜毎深めている。</p><p> </p><p><br></p><p>　彼ら覇者たちはもはや「身体という生地によって仕立てられた世界」には戻れないことを知っている。</p><p> </p><p><br></p><p>　彼ら覇者たちは「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の行く末を怖れ、戸惑い始めている。</p><p>　</p><p>　「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の果てにあるAI人工知能による世界支配を怖れ、戸惑い始めている。</p><p> </p><p><br></p><p>　彼ら覇者たちは「身体という生地によって仕立てられた世界」を忘却の彼方へと押しやるため、その疎外をなきものとするためにAI人工知能による世界支配を容認すべきか戸惑っている。</p><p><br></p><p>　AI人工知能による世界支配によって「身体という生地によって仕立てられた世界」が壊滅するまえにこの地球を捨て、火星に向けた方舟を漕ぎ出すべきか戸惑っている。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>　さきに次代指導者に選出された「都市マンハッタン」の輝く高層ビル屋上階の人もまたいずれ「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」と「身体という生地によって仕立てられた世界」双方からの挟撃にあい、戸惑い迷う。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>　それでも「身体という生地によって仕立てられた世界」に生きる人々は戸惑うことはない、迷うこともない。</p><p>　</p><p>　「身体という生地によって仕立てられた世界」の人々の身体は「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の廃墟灰塵のなかからなお自然と大地が悠然と蘇りまた立ち昇ることを知っている。</p><p> </p><p><p> </p><p> </p><p></p></p><p><br></p><p>　身体という生地は戸惑うことも迷うこともない。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「二重橋」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556843/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556843</id><summary><![CDATA[  　”　久しぶりに　手を引いて　　親子で歩ける　うれしさに　　小さい頃が　浮かんできますよ　　おっ母さん　　ここが　ここが二重橋　　記念の写真を撮りましょうね 　　やさしかった兄さんが　　田舎の話を聞きたいと　　桜の下で　さぞかし待つだろ　　おっ母さん　　あれが　あれが九段坂　　逢ったら泣くでしょ　兄さんも 　　さあさ着いた　着きました　　達者で永生き　するように　　お参りしましょよ　観音様です　　おっ母さん　　ここが　ここが浅草よ　　お祭りみたいに　賑やかね” （ 詩・野村俊夫　曲・船村徹　歌・島倉千代子）   人は不条理を不条理として受け入れることはできない。 近代イデオロギーによって起こされる戦争の不条理は近代イデオロギーによって条理化されることはない。 「平和のための戦争か」「戦争による平和か」  近代イデオロギーによって起こされる戦争の原因と責任は近代イデオロギーによってその原因が究明されその責任が追求されることはない。 「植民地化か解放か」「内閣か軍部か天皇か」   近代イデオロギーによって起こされる戦争の不条理は近代イデオロギーを相対化し無化する思想と詩歌によって癒されるしかない。  ”戦争中、心で仰ぎ見た皇居二重橋で記念の写真を撮って、戦争で死んだ優しかった兄が眠る九段坂を訪ね、なお達者で永生きするよう浅草観音に祈る母娘の姿”  戦後を生きた人たちはこの詩歌に込められた思想によって戦争の傷跡をひっそりと癒すことができた。戦後を生きた人たちはこの詩歌に込められた思想によって戦争の傷跡をひっそりと癒すしかなかった。   先の戦争が終わって７０年 また近代イデオロギーの信奉者たちが「戦争と平和」について語り始めている。  近代イデオロギーよる「戦争と平和」の原因究明責任追及の不能のままに。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-10-12T07:50:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:39:15+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>　”　久しぶりに　手を引いて</p><p>　　親子で歩ける　うれしさに</p><p>　　小さい頃が　浮かんできますよ</p><p>　　おっ母さん</p><p>　　ここが　ここが二重橋</p><p>　　記念の写真を撮りましょうね</p><p> </p><p>　　やさしかった兄さんが</p><p>　　田舎の話を聞きたいと</p><p>　　桜の下で　さぞかし待つだろ</p><p>　　おっ母さん</p><p>　　あれが　あれが九段坂</p><p>　　逢ったら泣くでしょ　兄さんも</p><p> </p><p>　　さあさ着いた　着きました</p><p>　　達者で永生き　するように</p><p>　　お参りしましょよ　観音様です</p><p>　　おっ母さん</p><p>　　ここが　ここが浅草よ</p><p>　　お祭りみたいに　賑やかね”</p><p> </p><p>（ 詩・野村俊夫　曲・船村徹　歌・島倉千代子）</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>人は不条理を不条理として受け入れることはできない。</p><p> </p><p><br></p><p>近代イデオロギーによって起こされる戦争の不条理は近代イデオロギーによって条理化されることはない。</p><p> </p><p><br></p><p>「平和のための戦争か」</p><p>「戦争による平和か」</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>近代イデオロギーによって起こされる戦争の原因と責任は近代イデオロギーによってその原因が究明されその責任が追求されることはない。</p><p> </p><p><br></p><p>「植民地化か解放か」</p><p>「内閣か軍部か天皇か」</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>近代イデオロギーによって起こされる戦争の不条理は近代イデオロギーを相対化し無化する思想と詩歌によって癒されるしかない。</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>”戦争中、心で仰ぎ見た皇居二重橋で記念の写真を撮って、戦争で死んだ優しかった兄が眠る九段坂を訪ね、なお達者で永生きするよう浅草観音に祈る母娘の姿”</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>戦後を生きた人たちはこの詩歌に込められた思想によって戦争の傷跡をひっそりと癒すことができた。</p><p>戦後を生きた人たちはこの詩歌に込められた思想によって戦争の傷跡をひっそりと癒すしかなかった。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p><br></p><p>先の戦争が終わって７０年</p><p> </p><p>また近代イデオロギーの信奉者たちが「戦争と平和」について語り始めている。</p><p> </p><p><p> </p><p></p></p><p>近代イデオロギーよる「戦争と平和」の原因究明責任追及の不能のままに。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「The October」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/5556824/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/5556824</id><summary><![CDATA[  「野球の好きな少年」は生地キューバの岸辺から母親を乗せた小さなボートを漕ぎ出した。彼は横波を受けたボートから落ちた母親の身体を抱え揚げしながらようようにしてアメリカはフロリダの地に着岸した。 その地で彼はぐんぐん大きくなった。彼はやがてメジャーリーグに昇格してフロリダ・マーリンズの先発をつとめるようになった。彼のスライダーはホームベース近くで鋭くしなやかな大きな弧を描いて落ちた。 今シーズン彼は右肘の故障が癒え初めてのポストシーズンでの活躍を夢見ていた。 その矢先フロリダの岸壁に大きなプレジャーボートが激突して彼、ホセ・ヘルナンデスは２４歳で急逝した。 ドン・マッティングリー監督は彼、ホセ・ヘルナンデスを「野球の好きな少年のような男だった」と言って涙した。    「The October」 MLBのポストシーズンがスタートした。 NLWC（ナショナルリーグ・ワイルドカード）第１戦、ボルティモア・オリオールズ先発ピッチャーの初球スライダーがホームベース近くで鋭く大きく弧を描いて落ちた、 そのピッチャー マウンドに「野球の好きな少年のような男」ホセ・フェルナンデスの幻影がほの見えた。   「野球の好きな少年のような男」たちがみな渾身の力のかぎり投げて打って走る、 豪速球で三振を奪ってはガッツポーズ、とてつもないホームランを放っては大きく吠える、アンフェアーなプレイにはベンチからプレイヤー全員が飛び出て激しく殴り合う、  「野球の好きな少年のような男」たちのMLBのポストシーズンが始まった。  「野球の好きな少年」たちの夢の「The October」が今年もまた幕を開けた。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-10-11T07:29:00+00:00</published><updated>2019-01-13T07:33:59+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p> </p><p> </p><p>「野球の好きな少年」は生地キューバの岸辺から母親を乗せた小さなボートを漕ぎ出した。</p><p>彼は横波を受けたボートから落ちた母親の身体を抱え揚げしながらようようにしてアメリカはフロリダの地に着岸した。</p><p> </p><p><br></p><p>その地で彼はぐんぐん大きくなった。</p><p><br></p><p>彼はやがてメジャーリーグに昇格してフロリダ・マーリンズの先発をつとめるようになった。</p><p>彼のスライダーはホームベース近くで鋭くしなやかな大きな弧を描いて落ちた。</p><p> </p><p><br></p><p>今シーズン彼は右肘の故障が癒え初めてのポストシーズンでの活躍を夢見ていた。</p><p> </p><p>その矢先フロリダの岸壁に大きなプレジャーボートが激突して彼、ホセ・ヘルナンデスは２４歳で急逝した。</p><p> </p><p>ドン・マッティングリー監督は彼、ホセ・ヘルナンデスを「野球の好きな少年のような男だった」と言って涙した。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「The October」</p><p> MLBのポストシーズンがスタートした。</p><p> </p><p><br></p><p>NLWC（ナショナルリーグ・ワイルドカード）第１戦、ボルティモア・オリオールズ先発ピッチャーの初球スライダーがホームベース近くで鋭く大きく弧を描いて落ちた、</p><p> </p><p>そのピッチャー マウンドに「野球の好きな少年のような男」ホセ・フェルナンデスの幻影がほの見えた。</p><p> </p><p> </p><p> </p><p>「野球の好きな少年のような男」たちがみな渾身の力のかぎり投げて打って走る、</p><p> </p><p>豪速球で三振を奪ってはガッツポーズ、</p><p>とてつもないホームランを放っては大きく吠える、</p><p>アンフェアーなプレイにはベンチからプレイヤー全員が飛び出て激しく殴り合う、</p><p> </p><p> </p><p><br></p><p>「野球の好きな少年のような男」たちのMLBのポストシーズンが始まった。</p><p> </p><p><p> </p><p></p></p><p><br></p><p>「野球の好きな少年」たちの夢の「The October」が今年もまた幕を開けた。</p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「生前退位」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1386021/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1386021</id><summary><![CDATA[「主観と客観との間には一種の十全な関係が生ずるとか、客観とは内からみれば主観であるにちがいない何ものかであるとかということは、思うに、かつてはもてはやされた時代もあったが、一つのお人好しの捏造である。」「 現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。」「 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。—『遠近法主義。』」  「世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。」（フリードリッヒ・ニーチェ「権力への意志」）  「言葉」で世界を解釈しようとするかぎりこのアフォリズムを転倒することはできない。法は共同体の共同幻想でありその共同幻想に基づいた法言語によって記述される。法は共同体の共同幻想でありその共同幻想性により法の解釈可能性は制約される。法はその共同幻想性によりその解釈の可及的一義性安定性を希求する。それでも法の解釈方法を規定限定する法は存在しない。皇室典範 第４条「 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」これを「皇位の継承は天皇の崩御に限られる」「生前退位は認めない」と解釈することができる。これを「天皇の崩御による皇位の継承は皇嗣の直ちの即位による」「皇位の継承には間隙は生じない」と解釈することができる。法は共同幻想として共同体構成員の個的幻想と逆立しうる構造を持っている。その共同幻想を信仰する者はその共同幻想維持の欲求、衝動によって法を解釈する。その共同幻想と逆立する個的幻想を信仰する者はその個的幻想維持の欲求、衝動によって法を解釈する。いずれの解釈もその解釈をする者のそれぞれの欲求、衝動による。それでもなお法はその共同幻想によりその解釈の可及的一義性安定性を希求する。その共同幻想を信仰する者、逆立する個的幻想を信仰する者、そのいずれの者も法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱することができない。そのいずれであってもその法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱すれば、それはその共同幻想崩壊の萌芽となる、それに依って立つ共同体崩壊の萌芽となる。先の大戦が終わって７０年、戦争の記憶と物質的繁栄のなかでこの国の共同幻想は舞台裏に奥まったままであった。先の大戦が終わって７０年、戦争の記憶と物質的繁栄のなかでそれぞれがそれぞれの欲求、衝動によってそれぞれに世界を解釈してきた。先の大戦が終わって７０年、戦争の記憶が薄れ物質的繁栄に限りが見えてこの国の共同幻想がその姿を舞台表に現しつつある。そしてその共同幻想のほんとうの姿がその共同幻想たる法の解釈によってあらわになろうとしている。その共同幻想を信仰する者、逆立する個的幻想を信仰する者、そのいずれの者も法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱することができない。そのいずれであってもその可及的一義性安定性から逸脱すれば、それはその共同幻想崩壊の萌芽となる、それに依って立つ共同体崩壊の萌芽となる。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-10-03T05:18:02+00:00</published><updated>2016-10-04T02:09:57+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p data-placeholder=""><br></p><p>「主観と客観との間には一種の十全な関係が生ずるとか、客観とは内からみれば主観であるにちがいない何ものかであるとかということは、思うに、かつてはもてはやされた時代もあったが、一つのお人好しの捏造である。」</p><p>「 現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。」</p><p>「 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。—『遠近法主義。』」 &nbsp;</p><p>「世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。」</p><p>（フリードリッヒ・ニーチェ「権力への意志」）</p><p>&nbsp;&nbsp;<br></p><p>「言葉」で世界を解釈しようとするかぎりこのアフォリズムを転倒することはできない。<br></p><p><br></p><p>法は共同体の共同幻想でありその共同幻想に基づいた法言語によって記述される。<br></p><p>法は共同体の共同幻想でありその共同幻想性により法の解釈可能性は制約される。</p><p>法はその共同幻想性によりその解釈の可及的一義性安定性を希求する。</p><p><br></p><p>それでも法の解釈方法を規定限定する法は存在しない。<br></p><p><br></p><p>皇室典範 第４条「 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」<br></p><p><br></p><p>これを「皇位の継承は天皇の崩御に限られる」「生前退位は認めない」と解釈することができる。<br></p><p>これを「天皇の崩御による皇位の継承は皇嗣の直ちの即位による」「皇位の継承には間隙は生じない」と解釈することができる。</p><p><br></p><p><br></p><p>法は共同幻想として共同体構成員の個的幻想と逆立しうる構造を持っている。<br></p><p>その共同幻想を信仰する者はその共同幻想維持の欲求、衝動によって法を解釈する。</p><p>その共同幻想と逆立する個的幻想を信仰する者はその個的幻想維持の欲求、衝動によって法を解釈する。</p><p><br></p><p>いずれの解釈もその解釈をする者のそれぞれの欲求、衝動による。<br></p><p><br></p><p>それでもなお法はその共同幻想によりその解釈の可及的一義性安定性を希求する。<br></p><p>その共同幻想を信仰する者、逆立する個的幻想を信仰する者、そのいずれの者も法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱することができない。</p><p>そのいずれであってもその法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱すれば、それはその共同幻想崩壊の萌芽となる、それに依って立つ共同体崩壊の萌芽となる。</p><p><br></p><p><br></p><p>先の大戦が終わって７０年、</p><p>戦争の記憶と物質的繁栄のなかでこの国の共同幻想は舞台裏に奥まったままであった。</p><p><br></p><p>先の大戦が終わって７０年、</p><p>戦争の記憶と物質的繁栄のなかでそれぞれがそれぞれの欲求、衝動によってそれぞれに世界を解釈してきた。</p><p><br></p><p>先の大戦が終わって７０年、<br></p><p>戦争の記憶が薄れ物質的繁栄に限りが見えてこの国の共同幻想がその姿を舞台表に現しつつある。</p><p>そしてその共同幻想のほんとうの姿がその共同幻想たる法の解釈によってあらわになろうとしている。</p><p><br></p><p>その共同幻想を信仰する者、逆立する個的幻想を信仰する者、そのいずれの者も法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱することができない。</p><p>そのいずれであってもその可及的一義性安定性から逸脱すれば、それはその共同幻想崩壊の萌芽となる、それに依って立つ共同体崩壊の萌芽となる。<br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「執行」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1378102/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1378102</id><summary><![CDATA[「アイヒマンは、一貫してユダヤ人殺害への関与を否定、ユダヤ人の絶滅に『協力し幇助したこと』だけだと主張、あくまで合法な命令に従っただけだと主張した」 「ユダヤ人の絶滅について、ユダヤ人自身から、単なる従順以上のもの、協力を得ていたのも事実で、それが無ければあれだけ膨大な数の他民族の抹殺など不可能であった」 「アイヒマンらドイツ人の多くが、ユダヤ人の虐殺に反対もせずに、大量殺人をめざす機構に仕え、与えられた自分の任務を実行していった。一人ひとりの役割はそれほど残酷でも犯罪的でもなかっただろう。また、彼らのほとんどが、自分の手では一人のユダヤ人も殺さなかったし、殺せなかっただろう。」 （ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン -悪の陳腐さについての報告』）  「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下に対してユダヤ人絶滅のための『協力・幇助』の任務遂行を命じた。 アイヒマンは「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚からユダヤ人絶滅の「合法な命令」を受けそのために与えられた自分の任務を遂行した。 「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下にユダヤ人殺害の「執行」を命じることはなかった。  その「執行」は、

次々に移送されてくるユダヤ人をガス室に押し込み、 外壁に耳をあてその阿鼻叫喚を聴いて絶命を待ち、 白く膨れ上がった死体を次々と運び出して焼却処理することであった。 「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下にユダヤ人殺害の「執行」を命じることができないことを知っていた、 
その「執行」の命令が「合法な命令」にはなりえないことを知っていた。 
アイヒマンらが部下がその「執行」の命令を「合法な命令」として受け止めないことを、「合法な命令」として受け止めることができないことを知っていた。  「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚は、ともに捧げ持つ「ドイツ第三帝国」なる強靭強固の共同幻想をもってしても、ユダヤ人絶滅というジェノサイドの国家方針を正当化、合法化しえないことを知っていた。  「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚は共同幻想の幻惑性によってアイヒマンら部下にユダヤ人絶滅のための「協力と幇助」を命じることはできたが、共同幻想の相対性によって、ユダヤ人絶滅というジェノサイド殺害の「執行」を命じることはできなかった。 いかなる共同体の指導者や高級官僚も依って立つ共同幻想を超えてその権力を「執行」することはできない。  その越権の「執行」はその共同幻想の崩壊を齎す。 
その越権の「執行」はその共同幻想に依って立つ共同体の崩壊を齎す。  共同幻想の崩壊、共同体の崩壊の兆しはその越権の「執行」によって顕在化する。   ]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-10-01T00:31:58+00:00</published><updated>2016-10-01T00:31:58+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p><br></p><p>「アイヒマンは、一貫してユダヤ人殺害への関与を否定、ユダヤ人の絶滅に『協力し幇助したこと』だけだと主張、あくまで合法な命令に従っただけだと主張した」</p><p>&nbsp;「ユダヤ人の絶滅について、ユダヤ人自身から、単なる従順以上のもの、協力を得ていたのも事実で、それが無ければあれだけ膨大な数の他民族の抹殺など不可能であった」</p><p>&nbsp;「アイヒマンらドイツ人の多くが、ユダヤ人の虐殺に反対もせずに、大量殺人をめざす機構に仕え、与えられた自分の任務を実行していった。一人ひとりの役割はそれほど残酷でも犯罪的でもなかっただろう。また、彼らのほとんどが、自分の手では一人のユダヤ人も殺さなかったし、殺せなかっただろう。」</p><p>&nbsp;（ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン -悪の陳腐さについての報告』）&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下に対してユダヤ人絶滅のための『協力・幇助』の任務遂行を命じた。</p><p>&nbsp;アイヒマンは「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚からユダヤ人絶滅の「合法な命令」を受けそのために与えられた自分の任務を遂行した。</p><p>&nbsp;「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下にユダヤ人殺害の「執行」を命じることはなかった。&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;その「執行」は、

次々に移送されてくるユダヤ人をガス室に押し込み、</p><p>&nbsp;外壁に耳をあてその阿鼻叫喚を聴いて絶命を待ち、</p><p>&nbsp;白く膨れ上がった死体を次々と運び出して焼却処理することであった。</p><p><br></p><p>&nbsp;「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下にユダヤ人殺害の「執行」を命じることができないことを知っていた、&nbsp;
</p><p>その「執行」の命令が「合法な命令」にはなりえないことを知っていた。&nbsp;
</p><p>アイヒマンらが部下がその「執行」の命令を「合法な命令」として受け止めないことを、「合法な命令」として受け止めることができないことを知っていた。&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚は、ともに捧げ持つ「ドイツ第三帝国」なる強靭強固の共同幻想をもってしても、ユダヤ人絶滅というジェノサイドの国家方針を正当化、合法化しえないことを知っていた。&nbsp;</p><p>&nbsp;「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚は共同幻想の幻惑性によってアイヒマンら部下にユダヤ人絶滅のための「協力と幇助」を命じることはできたが、共同幻想の相対性によって、ユダヤ人絶滅というジェノサイド殺害の「執行」を命じることはできなかった。</p><p><br></p><p>&nbsp;いかなる共同体の指導者や高級官僚も依って立つ共同幻想を超えてその権力を「執行」することはできない。&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;その越権の「執行」はその共同幻想の崩壊を齎す。&nbsp;
</p><p>その越権の「執行」はその共同幻想に依って立つ共同体の崩壊を齎す。&nbsp;</p><p><br></p><p><br></p><p>&nbsp;共同幻想の崩壊、共同体の崩壊の兆しはその越権の「執行」によって顕在化する。 &nbsp;&nbsp;<br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「無明」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1355389/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1355389</id><summary><![CDATA[「人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。・・・人は自己中心的に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。」

「人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことの良さがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨の良さというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。」

（岡　潔「人間の建設」小林秀雄との対談集　講談社刊）  その階段には急な傾斜がかかっていて後ろのほうの席からも舞台が間近に迫って見えた、 ホールに突如「白鳥の湖」が地響いて、舞台に傲然たる光が差し込む、 部長刑事・木村伝兵衛（三浦洋一）が受話器にがなりたてる、 熊田刑事（平田満）が歩みでる、「ここは私にお任せください」  たしか新宿の小さなホールだった。 つかこうへい氏「熱海殺人事件」を観て身と心が悦び沸き立った。 それは、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇だった。 そう感じて「無明」の身と心が悦び沸き立った。 時は過ぎて、つかこうへい氏はこの世を去った。 
その「遺書」には、氏が「無明を押えながら生きてきた」記しが残されていた。  つかこうへい氏の「熱海殺人事件」は、眩い光や大きな音響で効果を引き立たせながら、しかし「静かに無明を押えながら」、そして「この世に遺すもの」として、作劇演出されたものであることを知った。 舞台劇を観たのはその「熱海殺人事件」が最後だった。 あのとき、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇を観て、「無明」の身と心が悦び沸き立った。  つかこうへい氏の「遺書」により、自己中心的に知情意し、感覚し、行為しながらも、「無明に生きることを知り、その無明を押えながら生きる」人々が糾う悲喜劇を空観して、また「無明」の身と心が悦び沸き立った。     ]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-09-25T00:14:24+00:00</published><updated>2016-09-25T23:46:07+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p><br></p><p>「人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。・・・人は自己中心的に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。」

「人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことの良さがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨の良さというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。」

（岡　潔「人間の建設」小林秀雄との対談集　講談社刊）&nbsp;</p><p><br></p><p><br></p><p>&nbsp;その階段には急な傾斜がかかっていて後ろのほうの席からも舞台が間近に迫って見えた、</p><p>&nbsp;ホールに突如「白鳥の湖」が地響いて、舞台に傲然たる光が差し込む、</p><p>&nbsp;部長刑事・木村伝兵衛（三浦洋一）が受話器にがなりたてる、</p><p>&nbsp;熊田刑事（平田満）が歩みでる、「ここは私にお任せください」&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;たしか新宿の小さなホールだった。</p><p>&nbsp;つかこうへい氏「熱海殺人事件」を観て身と心が悦び沸き立った。</p><p><br></p><p>&nbsp;それは、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇だった。</p><p>&nbsp;そう感じて「無明」の身と心が悦び沸き立った。</p><p><br></p><p>&nbsp;時は過ぎて、つかこうへい氏はこの世を去った。&nbsp;
</p><p>その「遺書」には、氏が「無明を押えながら生きてきた」記しが残されていた。&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;つかこうへい氏の「熱海殺人事件」は、眩い光や大きな音響で効果を引き立たせながら、しかし「静かに無明を押えながら」、そして「この世に遺すもの」として、作劇演出されたものであることを知った。</p><p><br></p><p>&nbsp;</p><p>舞台劇を観たのはその「熱海殺人事件」が最後だった。&nbsp;</p><p><br></p><p>あのとき、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇を観て、「無明」の身と心が悦び沸き立った。&nbsp;<br></p><p><br></p><p>&nbsp;つかこうへい氏の「遺書」により、自己中心的に知情意し、感覚し、行為しながらも、「無明に生きることを知り、その無明を押えながら生きる」人々が糾う悲喜劇を空観して、また「無明」の身と心が悦び沸き立った。 &nbsp; &nbsp;&nbsp;<br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「家庭の幸福」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1307749/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1307749</id><summary><![CDATA[「所謂『官僚の悪』の地軸は何か、所謂『官僚的』という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当たり、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。」「曰く、家庭の幸福は諸悪のもと」（「家庭の幸福」太宰治著）「太宰治にとって『家庭の幸福は諸悪のもと』という考え方は、この文学者が生涯をかけた文学思想のイロニイであった。」（光文社「家族のゆくえ」吉本隆明著）太宰治は「家庭」「家族」「性」を文学の褥とした。太宰治は「家庭」「家族」「性」という孤絶の個的幻想を文学の褥とした。「幸福の性」を求める男女の手紙が「幸福の家庭」にある男の妻に知られる、男女と妻の心身は激しい倫理的葛藤に揺さぶられる、その葛藤によって「幸福の性」「幸福の家庭」の正体が顔を覗かせる、その正体は孤絶の個的幻想か、それとも「官僚的という気風」に晒され「社会倫理」「法倫理」が忍び込んだ紛れの個的幻想か、孤絶の個的幻想は紛れの個的幻想を打ち払うことができる、孤絶の個的幻想は他の孤絶の個的幻想と並び立つことはできない、互いに孤絶の個的幻想の相克の行方には「幸福の性」「幸福の家庭」という名の静かな川が流れている。太宰治はその静かな川の流れに身を委ねた。「幸福の性」を求める男女のメールが「幸福の家庭」にある男の妻に知られる。そのメールが社会に暴かれる。その孤絶であり得た個的幻想も「官僚的という気風」に晒され「社会倫理」「法倫理」が忍び込んで紛れの個的幻想に変わる。紛れの個的幻想と紛れの個的幻想は紛れの諍いに陥る、互いに紛れの個的幻想の相克の行方には「官僚的という気風の風洞」が空虚に待ち受ける。「幸福の性」「幸福の家庭」は孤絶の個的幻想の深い葛藤のなかに秘そむ。「幸福の性」「幸福の家庭」は紛れの個的幻想のなかでその命脈をたもつことはできない。孤絶の個体幻想を「官僚的という気風」に晒し「社会倫理」「法倫理」で覆い隠す紛れの個的幻想に「幸福の性」「幸福の家庭」がおとずれることはない。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-09-14T06:33:10+00:00</published><updated>2016-09-16T07:48:21+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p data-placeholder=""><br></p><p><br></p><p>「所謂『官僚の悪』の地軸は何か、所謂『官僚的』という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当たり、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。」</p><p>「曰く、家庭の幸福は諸悪のもと」</p><p>（「家庭の幸福」太宰治著）</p><p><br></p><p>「太宰治にとって『家庭の幸福は諸悪のもと』という考え方は、この文学者が生涯をかけた文学思想のイロニイであった。」<br></p><p>（光文社「家族のゆくえ」吉本隆明著）</p><p><br></p><p><br></p><p>太宰治は「家庭」「家族」「性」を文学の褥とした。</p><p>太宰治は「家庭」「家族」「性」という孤絶の個的幻想を文学の褥とした。</p><p><br></p><p><br></p><p>「幸福の性」を求める男女の手紙が「幸福の家庭」にある男の妻に知られる、<br></p><p>男女と妻の心身は激しい倫理的葛藤に揺さぶられる、</p><p>その葛藤によって「幸福の性」「幸福の家庭」の正体が顔を覗かせる、</p><p>その正体は孤絶の個的幻想か、</p><p>それとも「官僚的という気風」に晒され「社会倫理」「法倫理」が忍び込んだ紛れの個的幻想か、</p><p>孤絶の個的幻想は紛れの個的幻想を打ち払うことができる、</p><p>孤絶の個的幻想は他の孤絶の個的幻想と並び立つことはできない、</p><p>互いに孤絶の個的幻想の相克の行方には「幸福の性」「幸福の家庭」という名の静かな川が流れている。</p><p><br></p><p><br></p><p>太宰治はその静かな川の流れに身を委ねた。<br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「幸福の性」を求める男女のメールが「幸福の家庭」にある男の妻に知られる。</p><p>そのメールが社会に暴かれる。<br></p><p>その孤絶であり得た個的幻想も「官僚的という気風」に晒され「社会倫理」「法倫理」が忍び込んで紛れの個的幻想に変わる。</p><p>紛れの個的幻想と紛れの個的幻想は紛れの諍いに陥る、</p><p>互いに紛れの個的幻想の相克の行方には「官僚的という気風の風洞」が空虚に待ち受ける。</p><p><br></p><p><br></p><p>「幸福の性」「幸福の家庭」は孤絶の個的幻想の深い葛藤のなかに秘そむ。<br></p><p>「幸福の性」「幸福の家庭」は紛れの個的幻想のなかでその命脈をたもつことはできない。</p><p><br></p><p><br></p><p>孤絶の個体幻想を「官僚的という気風」に晒し「社会倫理」「法倫理」で覆い隠す紛れの個的幻想に「幸福の性」「幸福の家庭」がおとずれることはない。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「日本プラン」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1229849/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1229849</id><summary><![CDATA[「本年夏、私がワシントン郊外の米国国立公文書館で発見した機密公文書『日本プラン』は、ライシャワーの傀儡天皇制論と似ている。というよりも、ライシャワー提言はこれを受けたものと思われる。その史料は、日本でもマイクロフィルムで一部が閲覧可能な米国戦時情報機関ＯＳＳ（Officeof StrategicServices,今日のＣＩＡの前身で、定訳はないが戦略情報局と訳しておく）史資料の山の中にあった。一九四二年六月三日付米国陸軍省軍事情報部（ＭＩＳ）心理戦争課『日本プラン（最終草稿）』である。その象徴天皇制利用構想は、フジタニ教授の発見した『ライシャワー・メモ」』より、更に三か月遡る。」 　「そして、この頃始まる国務省や陸軍内での本格的検討は、『日本プラン』を下敷きにしたと思われるコールグローブの整理した存続説の方向で展開され、さらに存続の論拠が強化される。（７）軍国日本をスムーズに武装解除するにも天皇は利用価値があり、二度と軍部独裁にならないようにするためには、軍部と武力を破壊すればよい（後の日本国憲法第九条「戦争放棄・戦力放棄」の方向）、（８）その制度的保証である憲法改正の発議権も、大日本帝国憲法では天皇にあり、対外干渉ではなく日本国民の「自由に政治形態を選択する権利」による憲法制定のかたちをとるためにも、天皇は利用しうる（ヒトラーのドイツとは異なり、日本政府を残した間接占領の方向）、と戦後占領改革の基本的方向が定まっていく。 」（『世界』２００４年１２月号掲載論文インターネット版及び参考資料 「1942年６月米国『日本プラン』と象徴天皇制」（抜粋）　加藤哲郎（一橋大学・政治学）） この「日本プラン」と「コールグローブの存続説」は事実であるか否か、また日本の現憲法が押し付けであるか否か、そのいずれにしても、現憲法は理念総体的に捉えられるものか否か、また理念総体的に捉えるべきものか否か、そのいずれにしても、現憲法の象徴天皇制と戦争放棄条項の関係は理念総体的に捉えられるものか否か、また理念総体的に捉えるべきものか否か、そのいずれにしても、憲法を改正するとして、現憲法を理念総体的に捉えられるものとして改正するのか否か、また理念総体的に捉えるべきものとして改正するのか否か、そのいずれにしても、憲法を改正するとして、現憲法の象徴天皇制と戦争放棄条項を理念総体的に捉えられるものとしたうえで改正するのか否か、また理念総体的に捉えられるべきものとして改正するのか否か、そのいずれにしても、改正後の憲法は、理念総体的に捉えられるものとするのか否か、また理念総体的に捉えられるべきものとするのか否か、そのいずれにしても、改正後の憲法の天皇と戦争に関する条項は理念総体的に捉えられるものか否か、また理念総体的に捉えられるべきものか否か、「日本プラン」や「コールグローブの存続説」は事実であるか否か、また日本の現憲法が押し付けであるか否か、そのいずれにしても、これからの現憲法の改正論議のなかで、日本のそして日本人にとっての「憲法」のほんとうの姿がじっくりと炙り出されていく。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-09-12T04:48:10+00:00</published><updated>2016-10-03T05:18:47+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p><br></p><p>「本年夏、私がワシントン郊外の米国国立公文書館で発見した機密公文書『日本プラン』は、ライシャワーの傀儡天皇制論と似ている。というよりも、ライシャワー提言はこれを受けたものと思われる。その史料は、日本でもマイクロフィルムで一部が閲覧可能な米国戦時情報機関ＯＳＳ（Officeof StrategicServices,今日のＣＩＡの前身で、定訳はないが戦略情報局と訳しておく）史資料の山の中にあった。一九四二年六月三日付米国陸軍省軍事情報部（ＭＩＳ）心理戦争課『日本プラン（最終草稿）』である。その象徴天皇制利用構想は、フジタニ教授の発見した『ライシャワー・メモ」』より、更に三か月遡る。」 　「そして、この頃始まる国務省や陸軍内での本格的検討は、『日本プラン』を下敷きにしたと思われるコールグローブの整理した存続説の方向で展開され、さらに存続の論拠が強化される。（７）軍国日本をスムーズに武装解除するにも天皇は利用価値があり、二度と軍部独裁にならないようにするためには、軍部と武力を破壊すればよい（後の日本国憲法第九条「戦争放棄・戦力放棄」の方向）、（８）その制度的保証である憲法改正の発議権も、大日本帝国憲法では天皇にあり、対外干渉ではなく日本国民の「自由に政治形態を選択する権利」による憲法制定のかたちをとるためにも、天皇は利用しうる（ヒトラーのドイツとは異なり、日本政府を残した間接占領の方向）、と戦後占領改革の基本的方向が定まっていく。 」（『世界』２００４年１２月号掲載論文インターネット版及び参考資料 「1942年６月米国『日本プラン』と象徴天皇制」（抜粋）　加藤哲郎（一橋大学・政治学））</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>&nbsp;この「日本プラン」と「コールグローブの存続説」は事実であるか否か、<br></p><p>また日本の現憲法が押し付けであるか否か、</p><p><br></p><p>そのいずれにしても、<br></p><p>現憲法は理念総体的に捉えられるものか否か、</p><p>また理念総体的に捉えるべきものか否か、</p><p><br></p><p>そのいずれにしても、</p><p>現憲法の象徴天皇制と戦争放棄条項の関係は理念総体的に捉えられるものか否か、</p><p>また理念総体的に捉えるべきものか否か、</p><p><br></p><p>そのいずれにしても、</p><p>憲法を改正するとして、現憲法を理念総体的に捉えられるものとして改正するのか否か、</p><p>また理念総体的に捉えるべきものとして改正するのか否か、</p><p><br></p><p>そのいずれにしても、</p><p>憲法を改正するとして、現憲法の象徴天皇制と戦争放棄条項を理念総体的に捉えられるものとしたうえで改正するのか否か、</p><p>また理念総体的に捉えられるべきものとして改正するのか否か、</p><p><br></p><p>そのいずれにしても、</p><p>改正後の憲法は、理念総体的に捉えられるものとするのか否か、</p><p>また理念総体的に捉えられるべきものとするのか否か、</p><p><br></p><p>そのいずれにしても、</p><p>改正後の憲法の天皇と戦争に関する条項は理念総体的に捉えられるものか否か、</p><p>また理念総体的に捉えられるべきものか否か、</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「日本プラン」や「コールグローブの存続説」は事実であるか否か、</p><p>また日本の現憲法が押し付けであるか否か、</p><p><br></p><p>そのいずれにしても、<br></p><p>これからの現憲法の改正論議のなかで、日本のそして日本人にとっての「憲法」のほんとうの姿がじっくりと炙り出されていく。</p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「天皇」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1296888/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1296888</id><summary><![CDATA[三島「天皇問題では、つまりいまは顕教と密教とが逆になっちゃった。顕教というのは、天皇が人間であり、象徴である。密教がいま学校では教えていないんだけど、現人神信仰というのが残っているのが密教だよ。」福田「ただ、僕にとって問題なのはエゴイズムの処理なんですよ。個人のエゴイズムというのは、時には国家の名において押さえなければならない。それなら国家のエゴイズムというのは何によって押さえるかというと、この原理は、天皇制によっては出てこないだろう。日本の国家のエゴイズムを押さえるということは、天皇制からは出てこない。僕は天皇制を否定するんじゃなくて、天皇制ともう一つ並存する何かがなくちゃいけない。絶対天皇制というのは、どうもまずい。」三島「僕はその問題はこういうふうに考えている。つまり僕の言っている天皇制というのは、幻の南朝に忠勤を励んでいるので、いまの北朝じゃないと言ったんだ。幻の南朝とは何ぞやというと、没我の精神で、僕にとっては、国家的エゴイズムを制肘するファクターだ。そのために、天皇にコントロールする能力がなければならない。」「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。」（河出文庫「三島由紀夫対談集　源泉の感情」ー福田恒存　文武両道と死の哲学　三島由紀夫ー「抜粋」）「 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。」「 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」「こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」「 始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 
国民の理解を得られることを、切に願っています。」（ 「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」NHK NEWS WEBより「抜粋」）ここには今生天皇の「天皇」についての認識が示されている。「天皇」は顕教としての「象徴天皇」とともに密教としての「現人神信仰」の体現者たるべきとの認識が示されている。「天皇」は「北朝」ではなく「幻の南朝天皇」としてあるべきとの認識が示されている。「天皇」は「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘するファクターであるべきとの認識が示されている。しかし、そのためには「天皇にコントロールする能力がなければならない。」（前出「三島」の発言）憲法第一条の「象徴天皇」は、その第六条で「内閣総理大臣」及び「最高裁判所の長たる裁判官」を任命し、同第七条の「国事に関する行為を行う」が、その不作為については法権力は及ばない。この任命や国事行為を行う顕教としての「象徴天皇」の背後には密教が黙座している。顕教としての「象徴天皇」は国政に関する権能は有しないが、密教としての「現人神信仰」の体現者として、その「信仰者」でありうる国民に「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」について直接話しかけることができる。天皇には「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘、コントロールしうる能力はある。その能力の遂行がどのような効果を生み出すのか生み出しうるのか「幻の南朝天皇」たらんとする今生天皇は、その効果を、「国家」や「国民」に委ねるしかない、「国家」や「国民」の認識あるいは理解に委ねるしかない、そしてまた「国家」や「国民」の信仰に委ねるしかない。先の大戦を終えて７０年、今生天皇は国家や国民には偲ぶべくもない深い思いを静かに述べた。、]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-09-09T05:47:53+00:00</published><updated>2016-09-13T02:14:00+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p><br></p><p>三島</p><p>「天皇問題では、つまりいまは顕教と密教とが逆になっちゃった。顕教というのは、天皇が人間であり、象徴である。密教がいま学校では教えていないんだけど、現人神信仰というのが残っているのが密教だよ。」</p><p>福田<br></p><p>「ただ、僕にとって問題なのはエゴイズムの処理なんですよ。個人のエゴイズムというのは、時には国家の名において押さえなければならない。それなら国家のエゴイズムというのは何によって押さえるかというと、この原理は、天皇制によっては出てこないだろう。日本の国家のエゴイズムを押さえるということは、天皇制からは出てこない。僕は天皇制を否定するんじゃなくて、天皇制ともう一つ並存する何かがなくちゃいけない。絶対天皇制というのは、どうもまずい。」</p><p>三島<br></p><p>「僕はその問題はこういうふうに考えている。つまり僕の言っている天皇制というのは、幻の南朝に忠勤を励んでいるので、いまの北朝じゃないと言ったんだ。幻の南朝とは何ぞやというと、没我の精神で、僕にとっては、国家的エゴイズムを制肘するファクターだ。そのために、天皇にコントロールする能力がなければならない。」</p><p>「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。」</p><p>（河出文庫「三島由紀夫対談集　源泉の感情」ー福田恒存　文武両道と死の哲学　三島由紀夫ー「抜粋」）<br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。」</p><p>「 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」</p><p>「こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」</p><p>「 始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 
国民の理解を得られることを、切に願っています。」</p><p>（ 「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」NHK NEWS WEBより「抜粋」）</p><p><br></p><p><br></p><p>ここには今生天皇の「天皇」についての認識が示されている。</p><p><br></p><p>「天皇」は顕教としての「象徴天皇」とともに密教としての「現人神信仰」の体現者たるべきとの認識が示されている。<br></p><p>「天皇」は「北朝」ではなく「幻の南朝天皇」としてあるべきとの認識が示されている。<br></p><p><br></p><p><br></p><p>「天皇」は「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘するファクターであるべきとの認識が示されている。<br></p><p><br></p><p><br></p><p>しかし、そのためには「天皇にコントロールする能力がなければならない。」</p><p>（前出「三島」の発言）</p><p><br></p><p><br></p><p>憲法第一条の「象徴天皇」は、その第六条で「内閣総理大臣」及び「最高裁判所の長たる裁判官」を任命し、同第七条の「国事に関する行為を行う」が、その不作為については法権力は及ばない。</p><p>この任命や国事行為を行う顕教としての「象徴天皇」の背後には密教が黙座している。</p><p><br></p><p>顕教としての「象徴天皇」は国政に関する権能は有しないが、密教としての「現人神信仰」の体現者として、その「信仰者」でありうる国民に「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」について直接話しかけることができる。</p><p><br></p><p>天皇には「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘、コントロールしうる能力はある。</p><p><br></p><p>その能力の遂行がどのような効果を生み出すのか生み出しうるのか</p><p><br></p><p>「幻の南朝天皇」たらんとする今生天皇は、その効果を、</p><p>「国家」や「国民」に委ねるしかない、</p><p>「国家」や「国民」の認識あるいは理解に委ねるしかない、</p><p>そしてまた「国家」や「国民」の信仰に委ねるしかない。</p><p><br></p><p><br></p><p>先の大戦を終えて７０年、今生天皇は国家や国民には偲ぶべくもない深い思いを静かに述べた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>、</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「遊びをせんとや、生まれけむ」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1206552/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/183388/42a6b3d9d4af621bd88f04983f476ed6_532784c777846f98a652d3577beaf0af.jpg"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1206552</id><summary><![CDATA[シャバダバ、シャバダバ〜黒縁メガネの丸っこく人懐っこい顔、江戸っ子気質で明るく粋で洒脱だった。「生きてるんだから楽しまなきゃ、遊ばなきゃ」「楽しいよ、ジャズはいいよ、麻雀、ゴルフ、野球、競馬、釣り、遊びって楽しいよ、面白いよ」終戦のころ、大橋巨泉氏は少年だった、あのころの少年たちはみな、終戦が炙り出した大人たち社会の欺瞞、愚かさ、情けなさを目の当たりにした。「遊びをせんとや生れけむ　戯れせんとや生れけん　遊ぶ子供の声きけば　我が身さえこそ動がるれ」（梁塵秘抄　巻第二　四句神歌　雑）人はなんのために生まれてきたのか、遊びをするため、戯れるために生まれてきたんじゃないか大人になって忘れていても、遊ぶ子供たちの声を聞いて思い出したはずじゃないか、人は、遊びをするため、戯れるために生まれてきたことを。「生きてるんだから楽しまなきゃ、遊ばなきゃ」「楽しいよ、ジャズはいいよ、麻雀、ゴルフ、野球、競馬、釣り、遊びって楽しいよ、面白いよ」「大人になっても、遊ばなきゃ、戯れなきゃ」「そうしないと、欺瞞だらけの愚かで情けない大人になってしまうよ」また、あのころと同じように、大人たち社会は欺瞞に満ちた愚かしい情けない姿を晒け出すようになった。大橋巨泉氏は、そんな社会に決別するかのように旅立っていった。大橋巨泉氏は、一緒に遊び楽しんできた仲間たちと、また来世で遊び戯れに行くかのように旅立っていった。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-09-06T02:25:47+00:00</published><updated>2016-09-07T04:49:56+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/183388/42a6b3d9d4af621bd88f04983f476ed6_532784c777846f98a652d3577beaf0af.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

		<div>
			<p><br></p><p>シャバダバ、シャバダバ〜</p><p><br></p><p>黒縁メガネの丸っこく人懐っこい顔、</p><p class="">江戸っ子気質で明るく粋で洒脱だった。</p><p class=""><br></p><p class=""><br></p><p>「生きてるんだから楽しまなきゃ、遊ばなきゃ」</p><p>「楽しいよ、ジャズはいいよ、麻雀、ゴルフ、野球、競馬、釣り、遊びって楽しいよ、面白いよ」</p><p class=""><br></p><p class=""><br></p><p class=""><br></p><p class="">終戦のころ、大橋巨泉氏は少年だった、</p><p class="">あのころの少年たちはみな、終戦が炙り出した大人たち社会の欺瞞、愚かさ、情けなさを目の当たりにした。</p><p class=""><br></p><p class=""><br></p><p class="">「遊びをせんとや生れけむ　戯れせんとや生れけん<br></p><p>　遊ぶ子供の声きけば　我が身さえこそ動がるれ」</p><p class="">（梁塵秘抄　巻第二　四句神歌　雑）</p><p><br></p><p class=""><br></p><p>人はなんのために生まれてきたのか、</p><p>遊びをするため、戯れるために生まれてきたんじゃないか</p><p class="">大人になって忘れていても、遊ぶ子供たちの声を聞いて思い出したはずじゃないか、</p><p>人は、遊びをするため、戯れるために生まれてきたことを。</p><p class=""><br></p><p class=""><br></p><p class=""><br></p><p>「生きてるんだから楽しまなきゃ、遊ばなきゃ」</p><p>「楽しいよ、ジャズはいいよ、麻雀、ゴルフ、野球、競馬、釣り、遊びって楽しいよ、面白いよ」</p><p>「大人になっても、遊ばなきゃ、戯れなきゃ」</p><p>「そうしないと、欺瞞だらけの愚かで情けない大人になってしまうよ」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>また、あのころと同じように、大人たち社会は欺瞞に満ちた愚かしい情けない姿を晒け出すようになった。</p><p><br></p><p>大橋巨泉氏は、そんな社会に決別するかのように旅立っていった。</p><p><br></p><p>大橋巨泉氏は、一緒に遊び楽しんできた仲間たちと、また来世で遊び戯れに行くかのように旅立っていった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「君死にたもふことなかれ」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1192385/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1192385</id><summary><![CDATA[「君死にたまふことなかれ、 すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、 獸（けもの）の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、 大みこゝろの深ければ もとよりいかで思（おぼ）されむ。」 （与謝野晶子「君死にたもふことなかれ」）「人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担を作り出すことができる存在である。共同幻想もまたこの負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造を持っている。」（吉本隆明　角川文庫「改訂新版　共同幻想論」序文）共同体を構成する個人の個体の幻想はその個人の心身にある。共同体を構成する個人の共同幻想もまたその個人の心身にある。共同幻想の体現者「すめらみこと」の個体の幻想はその「すめらみこと」個人の心身にある。「すめらみこと」の共同幻想は「すめらみこと」個人の心身にどう位相しているのであろうか、また「すめらみこと」の個体の幻想と共同幻想とはどのような構造にあるのであろうか、共同体を構成する個人はその個体の幻想と逆立する共同幻想のためにさまざまな負担を作り出す。「すめらみこと」はその個体の幻想と共同幻想が不調和、逆立したときどのような負担を作り出すのであろうか、「すめらみこと」の個体の幻想と共同幻想の不調和、逆立とその行方はその共同幻想のこれからを深く映し出していく。共同体は共同幻想とともにある。共同幻想はこの世界の至るところに無数に存在する。「君死にたもふことなかれ」与謝野晶子の慟哭はいまもこの世界中に木霊している。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-09-02T02:23:49+00:00</published><updated>2016-09-02T05:53:35+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「君死にたまふことなかれ、 すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね、 かたみに人の血を流し、 獸（けもの）の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、 大みこゝろの深ければ もとよりいかで思（おぼ）されむ。」</p><p>&nbsp;（与謝野晶子「君死にたもふことなかれ」）<br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担を作り出すことができる存在である。共同幻想もまたこの負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造を持っている。」<br></p><p>（吉本隆明　角川文庫「改訂新版　共同幻想論」序文）<br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>共同体を構成する個人の個体の幻想はその個人の心身にある。</p><p>共同体を構成する個人の共同幻想もまたその個人の心身にある。</p><p><br></p><p>共同幻想の体現者「すめらみこと」の個体の幻想はその「すめらみこと」個人の心身にある。</p><p><br></p><p>「すめらみこと」の共同幻想は「すめらみこと」個人の心身にどう位相しているのであろうか、</p><p>また「すめらみこと」の個体の幻想と共同幻想とはどのような構造にあるのであろうか、<br></p><p><br></p><p><br></p><p>共同体を構成する個人はその個体の幻想と逆立する共同幻想のためにさまざまな負担を作り出す。</p><p><br></p><p>「すめらみこと」はその個体の幻想と共同幻想が不調和、逆立したときどのような負担を作り出すのであろうか、<br></p><p><br></p><p><br></p><p>「すめらみこと」の個体の幻想と共同幻想の不調和、逆立とその行方はその共同幻想のこれからを深く映し出していく。</p><p><br></p><p><br></p><p data-placeholder="">共同体は共同幻想とともにある。</p><p data-placeholder="">共同幻想はこの世界の至るところに無数に存在する。</p><p data-placeholder=""><br></p><p data-placeholder=""><br></p><p data-placeholder=""><br></p><p>「君死にたもふことなかれ」</p><p><br></p><p>与謝野晶子の慟哭はいまもこの世界中に木霊している。</p><p><br></p><p data-placeholder=""><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「女優原節子」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1179480/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1179480</id><summary><![CDATA[「あんたみたいないい人はいない言うて、お義母さんも褒めとったよ」 「お義母さま、私を買い被っていらしたんですわ」 「買い被っとりゃせんよ」 「いいえ、私、おっしゃるほどのいい人間ではありません。私、お義父さまが思ってらっしゃるような人間ではないんです」  「いやそんなことはないよ」  「いいえ、私、ずるいんです。ほんとうにずるいんです。」 （『東京物語』１９５３年 監督小津安二郎　脚本小津安二郎、野田高梧）  原節子は女優として戦時を生きた。戦争が刻みつけた傷跡は、戦争を生き延びた原節子の心の奥底に潜んだ。奥底に潜む傷跡は、戦争を生き延びた原節子の心におぞましくも囁く。「それでいいのか」、と「小津は役者をみんな人形にしてしまうところがある。役者のほうでも、自分ではないような気がしながら演じていたと思うんだ。でも原節子は、その人形になってからの演技がすごい。」（ 写真家　荒木経惟） 戦後、女優原節子は、小津監督のスクリーン上で「人形になって」、戦争の傷跡を心の奥底になお沈潜させていた。その心の奥底の葛藤は「人形になってからの演技」に凄まじさとして滲み出ていた。「いいえ、私、ずるいんです。ほんとうにずるいんです。」女優原節子は小津監督の死とともに、スクリーンから姿を隠した。女優の仮面を外した原節子は、まるで戦争がなかったかのように振る舞い始めたこのおぞましい社会から姿を隠した。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-08-30T06:07:23+00:00</published><updated>2016-08-31T23:31:12+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p data-placeholder=""><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「あんたみたいないい人はいない言うて、お義母さんも褒めとったよ」</p><p>&nbsp;「お義母さま、私を買い被っていらしたんですわ」</p><p>&nbsp;「買い被っとりゃせんよ」</p><p>&nbsp;「いいえ、私、おっしゃるほどのいい人間ではありません。私、お義父さまが思ってらっしゃるような人間ではないんです」&nbsp;</p><p>&nbsp;「いやそんなことはないよ」&nbsp;</p><p>&nbsp;「いいえ、私、ずるいんです。ほんとうにずるいんです。」</p><p>&nbsp;（『東京物語』１９５３年 監督小津安二郎　脚本小津安二郎、野田高梧）&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;</p><p>原節子は女優として戦時を生きた。<br></p><p>戦争が刻みつけた傷跡は、戦争を生き延びた原節子の心の奥底に潜んだ。<br></p><p>奥底に潜む傷跡は、戦争を生き延びた原節子の心におぞましくも囁く。</p><p>「それでいいのか」、と<br></p><p><br></p><p>「小津は役者をみんな人形にしてしまうところがある。役者のほうでも、自分ではないような気がしながら演じていたと思うんだ。でも原節子は、その人形になってからの演技がすごい。」<br></p><p>（ 写真家　荒木経惟）&nbsp;</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>戦後、女優原節子は、小津監督のスクリーン上で「人形になって」、戦争の傷跡を心の奥底になお沈潜させていた。</p><p>その心の奥底の葛藤は「人形になってからの演技」に凄まじさとして滲み出ていた。</p><p><br></p><p>「いいえ、私、ずるいんです。ほんとうにずるいんです。」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>女優原節子は小津監督の死とともに、</p><p>スクリーンから姿を隠した。</p><p><br></p><p>女優の仮面を外した原節子は、</p><p>まるで戦争がなかったかのように振る舞い始めたこのおぞましい社会から姿を隠した。<br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「サード」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1179460/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1179460</id><summary><![CDATA[ 「都市は巨大なグランドで、すべての市民は野手である。うまく『まわりこまなければ』刺されるだろう。全速力で町を走り抜けてゆくサード、追って行くⅡＢを俯瞰で。 いずれにしても、ものみな音楽で終わる。 ラストシーンを作るのは、演出家の仕事です」（「監督東陽一『サード』のラストシーンについて」脚色・寺山修司）この言葉のとおり、ラストシーンのほかは演出めいたあとがなかった。ベースを走り回る「サード」は役じゃなかった、演技じゃなかった、「永島敏行」じゃなかった、退屈から抜け出て大きな町へ向かおうとする、すぐその目の前にいる「サード」１７才だった。身体を売る「新聞部」は役じゃなかった、演技じゃなかった、「森下愛子」じゃなかった、退屈から抜け出て大きな町へ向かうために身体を売る、すぐその目の前にいる「新聞部」１７才だった。あのころ、すぐその目の前にいる１７才たちは、みな、退屈から抜け出て大きな町へと向かった。彼らはみな、たどり着いた大きな町の映画館に入って暗闇の中の小さなスクリーンを見つめていた。彼らが見つめるスクリーンでは、すぐその目の前にいる１７才の「サード」はベースを走り回り、「新聞部」は身体を売っていた。「サード」は「永島敏行」じゃなかった、「新聞部」は「森下愛子」じゃなかった。「いずれにしても、ものみな音楽で終わる」演出のラストシーンは、また、すぐその目の前にある、ずっと変わることのない大きな町の風景を映しだしていた。退屈から抜け出てたどり着いた大きな町では、うまく「まわりこむ」ために全速力で走り抜けていかなければならない、うまく「まわりこむ」ことができなければ、また身体を売るしかない。このラストシーンの演出によって、「サード」は「サード」のままに、「新聞部」は「新聞部」のままにスクリーン上にとどまった。そして彼ら、たどり着いた大きな町の映画館の暗闇からでてきた１７才たちの網膜には、「サード」「永島敏行」、「新聞部」「森下愛子」の姿が、永くいつまでも刻み込まれることとなった。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-08-30T06:03:59+00:00</published><updated>2016-08-31T00:22:39+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p><br></p><p>&nbsp;「都市は巨大なグランドで、すべての市民は野手である。うまく『まわりこまなければ』刺されるだろう。全速力で町を走り抜けてゆくサード、追って行くⅡＢを俯瞰で。 いずれにしても、ものみな音楽で終わる。 ラストシーンを作るのは、演出家の仕事です」</p><p>（「監督東陽一『サード』のラストシーンについて」脚色・寺山修司）</p><p><br></p><p><br></p><p>この言葉のとおり、ラストシーンのほかは演出めいたあとがなかった。</p><p><br></p><p><br></p><p>ベースを走り回る「サード」は役じゃなかった、演技じゃなかった、</p><p>「永島敏行」じゃなかった、</p><p>退屈から抜け出て大きな町へ向かおうとする、すぐその目の前にいる「サード」１７才だった。</p><p><br></p><p>身体を売る「新聞部」は役じゃなかった、演技じゃなかった、</p><p>「森下愛子」じゃなかった、</p><p>退屈から抜け出て大きな町へ向かうために身体を売る、すぐその目の前にいる「新聞部」１７才だった。</p><p><br></p><p><br></p><p>あのころ、すぐその目の前にいる１７才たちは、みな、退屈から抜け出て大きな町へと向かった。</p><p>彼らはみな、たどり着いた大きな町の映画館に入って暗闇の中の小さなスクリーンを見つめていた。</p><p><br></p><p>彼らが見つめるスクリーンでは、すぐその目の前にいる１７才の「サード」はベースを走り回り、「新聞部」は身体を売っていた。</p><p>「サード」は「永島敏行」じゃなかった、</p><p>「新聞部」は「森下愛子」じゃなかった。</p><p><br></p><p><br></p><p>「いずれにしても、ものみな音楽で終わる」演出のラストシーンは、また、すぐその目の前にある、ずっと変わることのない大きな町の風景を映しだしていた。</p><p><br></p><p>退屈から抜け出てたどり着いた大きな町では、</p><p>うまく「まわりこむ」ために全速力で走り抜けていかなければならない、</p><p>うまく「まわりこむ」ことができなければ、また身体を売るしかない。</p><p><br></p><p><br></p><p>このラストシーンの演出によって、「サード」は「サード」のままに、「新聞部」は「新聞部」のままにスクリーン上にとどまった。</p><p><br></p><p>そして彼ら、たどり着いた大きな町の映画館の暗闇からでてきた１７才たちの網膜には、「サード」「永島敏行」、「新聞部」「森下愛子」の姿が、永くいつまでも刻み込まれることとなった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「サウルの息子」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1172404/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1172404</id><summary><![CDATA[「今夜、すべての都市、すべての町のすべてのアメリカ国民に私はこう約束します。

私たちはアメリカを再び強くします。

アメリカの誇りを取り戻します。

アメリカを再び安全にします。

そして、アメリカを再び偉大にします。 皆さんに神のご加護を。おやすみなさい。皆さんを愛しています。」（ドナルド・トランプ　共和党大統領候補受諾宣言）国の指導者は、国家幻想の長として国民に幸福と安全を約束する。約束しなければ指導者になることはできない。国の指導者は、「その他の国の人」に幸福と安全を約束しない、それができないことを知っている。国家幻想の長である他の国の指導者はすべて同じ並びにある。「神」を信じる指導者はその宗教幻想の長として信仰を同じくする人の加護を祈る。祈らなければ指導者になることはできない。 「神」を信じる指導者は、「その他の神を信仰する人」の加護は祈らない、それができないことを知っている。宗教幻想の長である他の宗教の指導者はすべて同じ並びにある。異なる国の指導者、異なる宗教の指導者は、それぞれの相対を知る。この相対を知る指導者は、異なる国々、異なる宗教との融和の限界をまた思い知る。そのとき異なる国の指導者、異なる宗教の指導者は、その相対者の殲滅という見果てぬ幻想にふと誘われる。この見果てぬ幻想に取り憑かれた指導者に命じられ、同胞者を黙々とガス室に押し込んでは死体処理をする、その男サウルの名もすでに抹殺の計画名簿に記されてある、サウルの最後のただ一つの願いは惨殺された「息子の埋葬」であった、その儚い願いも虚しくサウルは銃弾を浴びて果てる。（映画「サウルの息子」監督メネシュ・ラースロー）それからほどなくして、その見果てぬ幻想に取り憑かれた指導者は拳銃でみずからの顳顬を撃ち抜いて果てた。その指導者は、国民に約束した幸福と安全も神の加護の祈りも果たすことはなかった、それでもその指導者は、国民らからの無数の憎しみの銃弾を浴びることなく、一人地下室で果てた。その指導者は、取り憑かれた相対者殲滅の幻想を見果てることはなかった、それでもその指導者は、その相対者からの無数の憎しみの銃弾を浴びることなく、一人地下室で果てた。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-08-28T08:19:06+00:00</published><updated>2016-08-28T08:19:06+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p><br></p><p>「今夜、すべての都市、すべての町のすべてのアメリカ国民に私はこう約束します。

私たちはアメリカを再び強くします。

アメリカの誇りを取り戻します。

アメリカを再び安全にします。

そして、アメリカを再び偉大にします。&nbsp;皆さんに神のご加護を。おやすみなさい。皆さんを愛しています。」</p><p>（ドナルド・トランプ　共和党大統領候補受諾宣言）</p><p><br></p><p><br></p><p>国の指導者は、国家幻想の長として国民に幸福と安全を約束する。<br></p><p>約束しなければ指導者になることはできない。</p><p><br></p><p>国の指導者は、「その他の国の人」に幸福と安全を約束しない、</p><p>それができないことを知っている。<br></p><p><br></p><p>国家幻想の長である他の国の指導者はすべて同じ並びにある。<br></p><p><br></p><p><br></p><p>「神」を信じる指導者はその宗教幻想の長として信仰を同じくする人の加護を祈る。</p><p>祈らなければ指導者になることはできない。</p><p>&nbsp;</p><p>「神」を信じる指導者は、「その他の神を信仰する人」の加護は祈らない、</p><p>それができないことを知っている。</p><p><br></p><p>宗教幻想の長である他の宗教の指導者はすべて同じ並びにある。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>異なる国の指導者、異なる宗教の指導者は、それぞれの相対を知る。</p><p>この相対を知る指導者は、異なる国々、異なる宗教との融和の限界をまた思い知る。</p><p>そのとき異なる国の指導者、異なる宗教の指導者は、その相対者の殲滅という見果てぬ幻想にふと誘われる。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>この見果てぬ幻想に取り憑かれた指導者に命じられ、同胞者を黙々とガス室に押し込んでは死体処理をする、</p><p>その男サウルの名もすでに抹殺の計画名簿に記されてある、</p><p>サウルの最後のただ一つの願いは惨殺された「息子の埋葬」であった、</p><p>その儚い願いも虚しくサウルは銃弾を浴びて果てる。</p><p>（映画「サウルの息子」監督メネシュ・ラースロー）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>それからほどなくして、その見果てぬ幻想に取り憑かれた指導者は拳銃でみずからの顳顬を撃ち抜いて果てた。</p><p><br></p><p>その指導者は、国民に約束した幸福と安全も神の加護の祈りも果たすことはなかった、</p><p>それでもその指導者は、国民らからの無数の憎しみの銃弾を浴びることなく、一人地下室で果てた。</p><p><br></p><p>その指導者は、取り憑かれた相対者殲滅の幻想を見果てることはなかった、</p><p>それでもその指導者は、その相対者からの無数の憎しみの銃弾を浴びることなく、一人地下室で果てた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p data-placeholder=""><br></p><p><br></p><p data-placeholder=""><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[「西鉄ライオンズ」]]></title><link rel="alternate" href="https://tetu.amebaownd.com/posts/1162536/"></link><id>https://tetu.amebaownd.com/posts/1162536</id><summary><![CDATA[１番高倉、２番は仰木か、豊田だったか、３番大下、４番中西、５番関口、そう、田中久寿男もいた。あの野武士たちは、広い空の下青々と茂った芝生のグラウンドで、思い切り投げ、打ち、走りして、存分に野球を楽しんでいた。ザーザー雑音まじりのラジオ、ザラザラ画面のテレビ、その前で野球小僧たちは、野武士たちの一挙手一投足に耳をそばだたせ、目を輝かせていた。大きくなったらあんなに遠くに飛ばせるんだ、大きくなったらあんなに速く走れるんだ、大きくなったらあんなに速く投げれるんだ、大きくなったらもっともっと楽しい野球をやれるんだ。見る間に大きくなった野球小僧は、甲子園という舞台で何本も大きなホームランをかっ飛ばし、グラウンド、テレビの前の多くの観客が熱狂し沸き立った。甲子園のヒーローは、もっと大きなホームランを何本も何本もかっ飛ばす姿を、グラウンド、テレビの前のもっともっと多くの観客が熱狂し沸き立つことを夢見ていた、そしてドラフト会議を待った。そこで甲子園のヒーローは知った、ドラフト会議の参加者たちの姿を、彼らは、グラウンドで打ったり走ったり投げたりして野球を楽しんでいる人達ではなかった、以前はそうだった人もいまは、砂と汗にまみれたユニフォームじゃなく、瀟洒なスーツとネクタイに身を包み、泥まみれのスパイクじゃなく、磨き上げられた革靴を履きこなしていた。彼らがやっていることは取り引きだった、そこで彼らは、甲子園のヒーローを、そのヒーローに熱狂し沸き立つ観客を数字に置き換えて取り引きをしていた。それでも、甲子園のヒーローは、新しいグラウンドで何本も何本も大きなホームランをかっ飛ばしてたくさんの観客を熱狂させ、沸き立たせた。やれば楽しいんだ、野球はこんなにも楽しいんだ、大きなホームランを打てばどんなに嬉しいか楽しいか、ほら見てほしい、いっぱい楽しんでほしい、っていつもいつも呟きながら。やがて甲子園のヒーローは思うようには大きなホームランを打てなくなった、大きなホームランを打つ嬉しさ楽しさがどんどんと遠のいていった。そしてある日甲子園のヒーローは、それまで、楽しい野球をするために、大きなホームランを打つために鍛え上げてきた、そのみずからの身体に大きな刺青を刻み込んだ。甲子園のヒーローを、そのヒーローに熱狂し沸き立つ観客を数字に置き換えて取り引きをする世界と決別するために、もう戻れない、大きなホームランをかっ飛ばし観客が熱狂し沸き立つ、あの嬉しい楽しい世界に、みずからの別れを告げるために。いま甲子園のヒーローは幻を見ているだろうか、あの野武士たちが思いっきり打ち走り投げて楽しんでいるグラウンド、そのグラウンドの右バッターボックスでバットを垂直に立てる、ピッチャーマウンドから投げ込まれる剛速球をバット一閃、ものの見事にはじき返した白球が遠く高く場外に消えていく、満員の観客が熱狂し沸き立つ、右手拳を突き上げゆっくりとベースを回る、ホームで野武士たちチームメートたちが迎える、その腕の輪の中へと勇躍してジャンプする、そんな幻を見ているだろうか。]]></summary><author><name>tetu</name></author><published>2016-08-25T05:43:06+00:00</published><updated>2016-08-25T23:45:55+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p data-placeholder=""><br></p><p><br></p><p>１番高倉、</p><p>２番は仰木か、豊田だったか、</p><p>３番大下、４番中西、５番関口、</p><p>そう、田中久寿男もいた。</p><p><br></p><p>あの野武士たちは、広い空の下青々と茂った芝生のグラウンドで、思い切り投げ、打ち、走りして、存分に野球を楽しんでいた。<br></p><p><br></p><p>ザーザー雑音まじりのラジオ、ザラザラ画面のテレビ、<br></p><p>その前で野球小僧たちは、野武士たちの一挙手一投足に耳をそばだたせ、目を輝かせていた。</p><p><br></p><p>大きくなったらあんなに遠くに飛ばせるんだ、</p><p>大きくなったらあんなに速く走れるんだ、</p><p>大きくなったらあんなに速く投げれるんだ、</p><p><br></p><p>大きくなったらもっともっと楽しい野球をやれるんだ。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>見る間に大きくなった野球小僧は、甲子園という舞台で何本も大きなホームランをかっ飛ばし、グラウンド、テレビの前の多くの観客が熱狂し沸き立った。<br></p><p><br></p><p><br></p><p>甲子園のヒーローは、もっと大きなホームランを何本も何本もかっ飛ばす姿を、グラウンド、テレビの前のもっともっと多くの観客が熱狂し沸き立つことを夢見ていた、</p><p><br></p><p>そしてドラフト会議を待った。</p><p><br></p><p><br></p><p>そこで甲子園のヒーローは知った、</p><p>ドラフト会議の参加者たちの姿を、</p><p>彼らは、グラウンドで打ったり走ったり投げたりして野球を楽しんでいる人達ではなかった、</p><p>以前はそうだった人もいまは、砂と汗にまみれたユニフォームじゃなく、瀟洒なスーツとネクタイに身を包み、泥まみれのスパイクじゃなく、磨き上げられた革靴を履きこなしていた。</p><p><br></p><p>彼らがやっていることは取り引きだった、</p><p>そこで彼らは、甲子園のヒーローを、そのヒーローに熱狂し沸き立つ観客を数字に置き換えて取り引きをしていた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>それでも、甲子園のヒーローは、新しいグラウンドで何本も何本も大きなホームランをかっ飛ばしてたくさんの観客を熱狂させ、沸き立たせた。</p><p>やれば楽しいんだ、野球はこんなにも楽しいんだ、大きなホームランを打てばどんなに嬉しいか楽しいか、ほら見てほしい、いっぱい楽しんでほしい、っていつもいつも呟きながら。</p><p><br></p><p><br></p><p>やがて甲子園のヒーローは思うようには大きなホームランを打てなくなった、</p><p>大きなホームランを打つ嬉しさ楽しさがどんどんと遠のいていった。</p><p><br></p><p>そしてある日甲子園のヒーローは、それまで、楽しい野球をするために、大きなホームランを打つために鍛え上げてきた、そのみずからの身体に大きな刺青を刻み込んだ。</p><p><br></p><p>甲子園のヒーローを、そのヒーローに熱狂し沸き立つ観客を数字に置き換えて取り引きをする世界と決別するために、</p><p>もう戻れない、大きなホームランをかっ飛ばし観客が熱狂し沸き立つ、あの嬉しい楽しい世界に、みずからの別れを告げるために。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>いま甲子園のヒーローは幻を見ているだろうか、</p><p><br></p><p>あの野武士たちが思いっきり打ち走り投げて楽しんでいるグラウンド、</p><p>そのグラウンドの右バッターボックスでバットを垂直に立てる、</p><p>ピッチャーマウンドから投げ込まれる剛速球をバット一閃、</p><p>ものの見事にはじき返した白球が遠く高く場外に消えていく、</p><p>満員の観客が熱狂し沸き立つ、</p><p>右手拳を突き上げゆっくりとベースを回る、</p><p>ホームで野武士たちチームメートたちが迎える、</p><p>その腕の輪の中へと勇躍してジャンプする、</p><p><br></p><p>そんな幻を見ているだろうか。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
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